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 京都のラーメンにも、様々な歴史がある。
京都ラーメンの発祥には諸説あるが、一般的には京都駅の東の高架道路の「たかばし」で中国浙江省の徐氏が屋台を始めたのが最初と云われる。
その店は、現在、新福菜館(拙作「京都のブラック」参照)と云われる数店の店を構えるチェーン店となっている。
 それはそれとして、京都の北白川にも少し後になって、ラーメンの屋台が出来た。
ご承知のように、今でもそうであるが、当時の北白川近辺は学生のが沢山集まっている下宿街であった。
夜遅くまで起きている学生さんには、夜中のラーメンは堪えられないご馳走であり、良く流行った。
有名なのは銀閣寺道の入口の白川に架かる橋の袂の屋台である。
この屋台、どう発展して行ったかは分からないが、恐らくは、北白川の有名店の一つになって行ったものであろう。
 他にも、昼間にラーメンを食べさせてくれる店もあった。
銀閣寺橋から数十m西にある疏水べりの「MT」という店である。
大学の先生やら学生さんが行列をしてまで食べる店であった。
 この店、鶏がらベースの醤油スープに、京都で初めてスープの表面に背脂を振り掛け散りばめたという開拓者である。
先程のたかばしの新福菜館は、醤油などの出汁を濃くしたスープの方向へ行ったが、このMTは、スープを濃くすることよりも、背脂で濃厚にする方向に向ったのであった。
この背脂を振り掛ける調理から、背脂乗せラーメンのことを「チャッチャ系ラーメン」と分類されることも有るらしい。
いずれにしてもこの店はその開拓者である。
 この店、ずっと同じ場所で同じ店構えで営業を続けている京都ラーメン界の老舗中の老舗、凄い店である。
 久しぶりにこのMTを訪問してみた。
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 行列は嫌なので、開店直後を狙ったのであったが、店内にはもう数名の客がいた。
カウンター10席ぐらいと,小上がりテーブル3卓の店である。
カウンターに座り、基本となるラーメンを注文したのであった。
 5分位して出てきた。
 しかしその間に店は満席となってしまってもいた。
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さあ頂いてみよう。
トッピングは、チャーシュー、九条ネギ、それにラーメン鉢一杯の背脂である。

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 先ずはスープ、背脂は前処理で脂分を減らしているとのことで、ドロドロ感は全くない。
どちらかと云うとアッサリ背脂である。
もう少し醤油味が濃ければと思ったぐらいである。
しかし葱と良くマッチしているので、これで良いのかも知れない。
 次は麺であるが、中細のストレート生麺である。
これは好きな麺であるので、異論は全くない。
ラーメンを食べ終わる頃になっても、伸びたりしない。
優秀な麺であろう。
 チャーシューは薄めのものが3枚程度、取り立てての印象はないが、ラーメンを飾る大切なものである。
 久しぶりの訪問であった。
以前とは少し変わってきているように思えたが、関係なく美味しく頂いて店を後にした。
 さて、この店の前を北白川疏水が流れている。疏水分流である。
この疏水は南禅寺の煉瓦造りの水路閣という高架水路で南禅寺を横切り、東山沿いに北へ流れ銀閣寺にいたる。
この疏水べりの遊歩道は通称「哲学の道」と云われる。
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 疏水は銀閣寺で曲り西に流れ、「MT」の前を過ぎ、少し行った所で北へ方向を変え、京都大学の農学部グラウンドの東を北へと流れ、そして五山の送り火「妙 法」で知られる松ヶ崎の山の近くまで行き、南へと反転し、堀川に流れ込んでいる。
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京都の町は、長州藩とそれに手を貸す三条家が起こした禁門の変(蛤御門の変)にて明治維新の混乱の中で焼き尽くされたことがあった。

 余談であるが、この「変」の以前までは京都は何度も戦乱に巻き込まれ、大火災を多数経験している。
しかしこの「変」以降には、焼かれていないので、京都人が先の戦争という場合は、この蛤御門の変を指すと云われている。
 明治維新になって、天皇は東京行幸したまま帰ってこない、街は蛤御門の変で焼かれたままである、踏んだり蹴ったりの京都で、産業興隆を唱えリーダーとして活躍した人達がいる。
 その代表者は、当時の知事・北垣国道、そして琵琶湖疏水を掘削・建設した若き技術者・田邊朔郎である。
疏水が開発された結果、発電所ができ、市電も走り、そして琵琶湖との水運も開通し、市民の用水や、作物の灌漑にと、一石四鳥も五鳥もの効用があり、それをきっかけに京都が見事に復活を遂げたのであった。
 その京都復興のシンボルが疏水である。
今も、疏水べりの桜の花の光景が、京都観光の目玉でもある。