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大阪と東京を結ぶ国道1号線が、大阪府から京都府へ入る所は「洞ヶ峠」と云う。
住所で言うと大阪府枚方市(ひらかたし)と京都府八幡市の境界である。
住所で言うと大阪府枚方市(ひらかたし)と京都府八幡市の境界である。
この峠を少し京都側に下った所に最近、新しくラーメン店が開店した。
店の名は「麺屋 TI」と云う。
店の名は「麺屋 TI」と云う。
この店の本店は近くの城陽市にあるが、この度、交通量の多いこの場所に、前のラーメン店の跡地に2号店なる支店を開業したものである。
この店の主人は、千葉の松戸市の日本一のラーメン店との評判がある「中華蕎麦 とみ田」で修業して、その味を引き継いだ状態で「麺屋 TI」を開業したとのことである。
一度訪ねてみないと思っていたが、京阪電車くずは駅から路線バスが近くを通っているのを利用して行ってみた。
やはり行列ができている。
食券制であり、行列している間に買って、店員さんに渡すシステムとなっている。
それはそれで良いのだが、急用が出来たりするとキャンセルはどうなるのであろうか?
良くは分からないまま、つけ麺〔並〕を購入し、店員さんに渡したのであった。
良くは分からないまま、つけ麺〔並〕を購入し、店員さんに渡したのであった。
30分ぐらい待って店内の席に案内された。
つけ麺にも、「冷や」と「あつ」がある。
食券では選択できていないので、案内された時「あつでお願いします」と着席した。
つけ麺にも、「冷や」と「あつ」がある。
食券では選択できていないので、案内された時「あつでお願いします」と着席した。
そして待つこと10分ぐらいか?
つけ麺が出てきた。
並でも量は多い。
麺鉢一杯に入っている。
うどんのような太さのストレート麺である。
麺鉢一杯に入っている。
うどんのような太さのストレート麺である。
そして大きなチャーシューが1枚、麺にトッピングされている。
そして出汁はダブルスープ、濃厚そうである。
出汁だけ食べても満腹になりそうな量である。
出汁だけ食べても満腹になりそうな量である。
さて、頂いてみよう。
つけ麺の良いところは、麺に出汁スープが侵入しないので、麺と出汁の味がそれぞれに楽しめることである。
かつて、東京の大勝軒であつもりを頂いたことがあるが、それは美味かった。
別の日にラーメンを頂いたが、あつもりに軍配を挙げたという経験がある。
かつて、東京の大勝軒であつもりを頂いたことがあるが、それは美味かった。
別の日にラーメンを頂いたが、あつもりに軍配を挙げたという経験がある。
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「TI」の麺はそれよりも、かなり太めである。
そうすると、麺そのものを食べているという感じは否めない。
しかし、これが現代風なのであろう。
そうすると、麺そのものを食べているという感じは否めない。
しかし、これが現代風なのであろう。
量は多かった。
今まで食べた「並」では一番の量である。
メニューには280gと書かれている。
途中でギブアップも考えたが、何とか頑張って完食まで漕ぎつけたのであった。
今まで食べた「並」では一番の量である。
メニューには280gと書かれている。
途中でギブアップも考えたが、何とか頑張って完食まで漕ぎつけたのであった。
この辺りの「洞ヶ峠」は、歴史的に戦国時代に豊臣秀吉が起こした「天王山の合戦」あるいは「山崎の合戦」の時に、大和の国主筒井順慶が、誘われた明智光秀に与しようかどうかと、戦況を眺めた場所とされている。
「洞ヶ峠を決め込む」と、日和見を指して言う諺の源となった出来事である。
現在の洞ヶ峠は国道と府道の大きな交差点となっていて、その交差点に筒井順慶の陣があった場所との石碑も建てられている。
しかし、順慶は大和からこの場所まで来てはいないと云う説もある。
小生の意見では、来ようが来まいがそれは説が色々あるのは当たり前、真実は洞ヶ峠からは戦況が見られなかったのでは、と云うことである。
地図を見てみると、洞ヶ峠と山崎の戦いの現場との間には大きな邪魔者があるが、秀吉の時代の歴史家、そしてさらに後世の歴史家はそれを知らずに、また現場も見ないで適当なことを記したと思われるのである。
その邪魔者とは何か?
石清水八幡宮が山頂に鎮座する男山である。
石清水八幡宮が山頂に鎮座する男山である。
それを確かめるために、洞ヶ峠の山頂まで行ってみた。
山頂にはNTTの受送信のアンテナがある。
付近の住宅地から、一段と高い所である。
山頂にはNTTの受送信のアンテナがある。
付近の住宅地から、一段と高い所である。
その場所からは、住宅が邪魔をして見えない部分もあるが、男山が山崎方向に立ちはだかり、合戦地の山崎を見ることが出来なかった。
歴史とは残念ながらそのようなものである。
後世の歴史家が、その体制に合致するように創作するケースが多く、そのようにしたのであろう。
後世の歴史家が、その体制に合致するように創作するケースが多く、そのようにしたのであろう。
秀吉だけではなく、その後の徳川時代、そして明治の薩長、そしてそれ以降の現在もそうである。
峠には昔風の茶屋がある。