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 日本三大そばの一つである戸隠そばを近隣で味わってみようと、京阪電車の大阪市と京都市の中間にある枚方市の牧野駅で下車し、東方向を目指した。
 大阪歯科大学、そしてその先、関西医科大学のキャンパスの間にある道を通り抜け、1kmほど歩くと目的の蕎麦屋に到着した。
 店の名は「YM」という。
住宅街のの入口で、車道に面した民家改造風の店である。
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 丁度、昼時であったので混雑していたら大変かな? と思いながら店に入ったが、全く心配は無用であった。
20席以上は有りそうであるが、先客は1組だけ。
空いているテーブルに座り、オーダー待ちとなった。
そこへ店員嬢がやってきたので、ざる1枚を注文した。

待っているところに、この店の主人氏が出てきて、
「蕎麦粉は戸隠でなく開田高原の10割でやってますがよろしいですか?」
いまさらNOとは言えず、
「開田とは、御嶽山の麓のですか?」
「そうです。打ち方は戸隠流ですけどね…。戸隠で修業してきました」
正直な方である。

「それで十分です。もう何年ですか?」
「店は20年です。脱サラしましてね…。四国から出てきてサラリーマンをやっていたのですが…」
「四国なら、うどんではないんですか?」
「いやいや、うどんとは関係ないところからです」
 まだまだ話は弾みそうであるが、そうしていると蕎麦が遅くなる。
「蕎麦をお願いします」
と、待つことになった。
 出されたそばは戸隠特有のボッチ盛りではない。
それも残念であるが、戸隠の製法であれば文句なしに戸隠そばである。
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さあ、頂いてみよう。

かなりな歯応えがあるのは、コシがしっかりしているのであろう。
出雲そばに良く似ている。
出汁は、昆布や鰹であろうが、それほど濃厚ではない。

 量もまずは手頃である。
完食しそば湯をそば猪口の出汁と混ぜ、最後まで美味しく頂いたのであった。
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 信州は元々痩せた土地で米作に適さないので、蕎麦作りが盛んになったのは良くわかる。
そして育てた蕎麦から蕎麦麺を造り、そばを食べる文化となったのである。
しかしなぜ戸隠が日本三大そばなのか?
 戸隠は高野山や比叡山に匹敵する修験者が集まる山岳信仰の地であった。
修験者は五穀断ちをする。
そばは五穀に入らないのであるから、修験者達はそばを携行し、食べたのが戸隠そばの始まりであろう。
それが戸隠に根付いたのが戸隠そばである。
 修験道の時代からであるから平安末期や鎌倉時代からであろう。
1000年もの蕎麦文化を育んできているのが戸隠である。
 さて枚方市の牧野である。
牧野には千数百年前の古代の古墳がある。
牧野車塚古墳と云う。
 関西医大や大阪歯大から南を向いて穂谷川を渡って暫く行ったところである。
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この古墳は4世紀後半から5世紀にかけて築造されたものである。国の史跡に指定されている。

 枚方丘陵の北端に築かれたもので、全長は約100m、前方部は東を向き、後円部からは埴輪が出土されていて、国の史跡に指定されている。
そして公園として管理されていて、自由に見学することができる。
墳丘は二段構成になっていて、周囲には空濠がめぐらされている。
古墳の大きさや形状、そして出土品を合わせて、大阪北河内地域の首長の墓と推察されている。
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 この古墳の東側は10数年前まで関西外語大学のキャンパスであった。
現在は概ね公園化されているが、図書館と本館の2つの建物が残っていて、それぞれ枚方市の中央図書館と市の集合施設「輝きプラザきらら」として運用されている。
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 そしてその南には重建機の小松製作所の大工場がある。
そしてその南に新しい関西外国語大学の主キャンパスができている。