1
大阪地下鉄堺筋線の恵比須町駅で下車し、地上に上がった交差点の北西角に「KS麺」という甲州麺の店がある。
通天閣の本通から抜けてきたその対面でもある。
昼には少し早いせいか、客は半分ぐらいの埋まりである。
「ほうとう」とはどのようなものなのか未知数であるが、戦国時代の甲斐の盟主の武田信玄が好んだ麺料理であると聞いたことがある。
もう一つの知識は、「ほうとう」は、うどんと同じ小麦を素材として練り固め、包丁で細い麺とするのであるが、幅や形状にあまりこだわらず、平麺で不揃いであることぐらいである。
カウンターに座り、注文すべくメニューを見た。
「甲州麺」と云うジャンルと「ほうとう」というジャンルがある。
どれが本来のほうとうに近いのか良くわからない。
店員嬢に聞いてみるも、もう一つ理解できない。
仕方がないので、最安値である「かけほうとう」と云うのを注文して、暫く待つことになった。
暫く待って、ほうとうが出てきた。
出汁は醤油出汁で、うどん出汁の様なものである。
「かけ」なので何も乗っていないのかと思いきや、大き目の刻み揚げ、刻みキャベツ、そして青ネギの細切りが乗っている。
これだけでは寂しいので、カウンターに有った揚げ玉を乗せてみた。
少々の七味も掛けてみた。
「かけ」なので何も乗っていないのかと思いきや、大き目の刻み揚げ、刻みキャベツ、そして青ネギの細切りが乗っている。
これだけでは寂しいので、カウンターに有った揚げ玉を乗せてみた。
少々の七味も掛けてみた。
さあ頂いてみよう。
出汁は思った通りにうどん出汁である。
薄めなので、関西の味に迎合したものであろう。
薄めなので、関西の味に迎合したものであろう。
麺は間違いなくほうとう麺である。
不揃いであるがゆえにうどんのように、同じ歯ごたえではない。
硬いところやら柔らかいところやらをランダムに楽しみながら、美味しく頂いたのであった。
不揃いであるがゆえにうどんのように、同じ歯ごたえではない。
硬いところやら柔らかいところやらをランダムに楽しみながら、美味しく頂いたのであった。
2
この地下鉄恵美須町辺りは国道25号線が東西に通り、東の上町台地へ登って行くとそこは天王寺七坂の一番南の坂である「逢坂(おうさか)と云われる坂である。
四天王寺へ通ずる坂であるが、その右手には茶臼山、左手には安居(やすい)神社がある。
四天王寺へ通ずる坂であるが、その右手には茶臼山、左手には安居(やすい)神社がある。
安居神社の境内は大坂の夏の陣の時の真田幸村の終焉の地と云われる。
徳川家康をもう少しのところまで攻め、取り逃がした幸村はこの安居神社の境内で休憩していた。
徳川家康をもう少しのところまで攻め、取り逃がした幸村はこの安居神社の境内で休憩していた。
そこを徳川方の部隊に襲われた。
戦意を喪失していた幸村はあえなく討たれてしまうのである。
戦意を喪失していた幸村はあえなく討たれてしまうのである。
その日の真夜中から未明にかけて、大坂城の山里曲輪に立て籠もっていた秀頼や淀君は曲輪を焼かれて最後の場面を迎え、豊臣家は壊滅したのが陣の結末である。
考えてみれは真田家は元は甲斐の武田の家臣であった。
信玄に同席し、ほうとうを食したこともあるのであろう。
信玄に同席し、ほうとうを食したこともあるのであろう。
武田氏が天目山の戦いで滅亡した後、多くの家臣は徳川方に鞍替えした。
と云うより徳川の甲斐や信濃経営に力を貸したのであった。
と云うより徳川の甲斐や信濃経営に力を貸したのであった。
しかし真田家だけは違った。
当主昌幸と次男信繁(幸村)は徳川に味方しなかった。
但し、長男信之は徳川の家臣となった。
このような複雑な動きをした。
当主昌幸と次男信繁(幸村)は徳川に味方しなかった。
但し、長男信之は徳川の家臣となった。
このような複雑な動きをした。
昌幸親子は関ヶ原の時徳川に味方しなかったという罪で紀州九度山に流罪となった。
そして大坂の陣の直前に九度山を脱出し、大坂城の籠城軍に味方したのであった。
それはそれで一つの生き方である。
長いものに巻かれろ、理不尽には味方しない、これらは個人の自由である。
義を取るか、実を取るか、それは自由である。
長いものに巻かれろ、理不尽には味方しない、これらは個人の自由である。
義を取るか、実を取るか、それは自由である。
家康に反旗を翻し生き続けた真田の生き様が伝わってくるようなほうとうの店の界隈である。
余談であるが、徳川の家臣となった甲斐武田衆は尾張城下にて「ほうとう」をベースに「きしめん」を考案したとの俗説もある。