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いつもはJR山陽本線を利用しているが、少し趣向を変えて、並行して走っている山陽電車に乗ってみた。
山陽電車は神戸と姫路を結ぶ電車である。
神戸市内はJR、山陽どちらでもあまり変わりないが、明石から西はJRが平野部の中心地を通っているのに比べて、山陽電車は海に近い所を姫路まで行く。
明石から山陽電車に乗って、高砂と云うところで下車してみた。
全国的にはあまり知られていない市である。
唯一、結婚式の宴席でかつては良く歌われた謡曲「高砂」の舞台と聞けば、心当たりがあるのではなかろうか?
『高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、
月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、
はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり』
後程訪れる高砂神社の社伝によると、神社創建時、松の一つの根から雌雄の幹が立ち上がって、そこに男女の神(イザナギのミコト、イザナミのミコト)が宿り、
『我等神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん』
と告げたという伝承がある。
その夫婦松は「相生の松」云われる。
これを材題に世阿弥が「高砂」を歌い上げたと云われている。
高砂駅の周りは華やかな駅前ではない。少しばかりの店がある。
見回して見て、まず「にくてん」の幟が目に付いた。
にくてんとは聞いたことが無い名前である。
肉の天麩羅? おそらくはご当地の名物であろう。
駅に繋がっている居酒屋風の店「KSJ」に入ってみた。
よくは分からないが、とりあえず空いていた鉄板前のカウンター席に座って、にくてんを注文した。
すると店の主人であろう、鉄板の上に溶いた小麦粉を広島焼きのように広げ始めた。
何が始まるのであろうか?
焼け始めた生地の上に何やら黒いものをバラマキ始めた。
聞くと「すじこん」、牛スジとこんにゃくを煮たものである。
神戸長田名物のそばめしも同様のすじこんを混ぜていたのを思い出した。
それに加えてジャガイモやキャベツ、玉葱を乗せ、お好み焼き風に焼き上げたものである。
あとはお好みでソースを掛けて食べるのである。
にくてん、すじこんの肉と天かすのてんを合わせたものであろうか?
関西らしい名付け方であるが、名前だけでは違うイメージを描いてしまう。
焼きあがったにくてんに辛口のソースと青のりを振り掛け、頂いたのであった。
ビールのつまみには良しと思うが、昼飯としては量が不足する。
尚、高砂では古くからお好み焼きのことをにくてんと呼んでいたのだそうでもある。
2
以前、高砂には国鉄時代の鉄道「高砂線」が山陽本線加古川駅から出ていた。
客車は2時間に一本程度の運行であったらしい。
用途は周囲に早くから開けていた化学系工場の貨物運搬が主の路線であった。
貨物の引き込み線はたこ足のように多数あったが、客駅は2つ。
先ほどの山陽電車の高砂駅の所にあった高砂北口駅と、少し南にある高砂駅である。
廃線跡は遊歩道になっている。
まずこれを北口駅である山陽電車の高砂駅から歩いて見よう。
暫く行くとポイント切替機が幾つか並べられている場所がある。
おそらく信号所がこの付近にあったのであろう。
更に行くと、今度は広い場所に出る。公園の様になっている。
中央にモニュメントだろうか?車輪が置かれている。
高砂駅の跡地であろう。
その広場の西に隣接して大きな寺がある。十輪寺と云う。
この寺はもともと空海によって開山された真言宗の寺であった。
時代は下って、浄土宗の法然上人が京の安楽寺で法難に合って、後鳥羽上皇の判決で讃岐の国に島流しになったことがあった。
その途中この寺を訪れ、地元の漁師に説法したといわれる。
その縁から、後に法然の弟子が中興して、西山浄土宗の寺になったという由緒ある寺である。
また江戸時代には、京都所司代の板倉勝重の帰依を得て、寺領も寄進されたと云われる。
お参りしてご朱印を頂いた。
「方丈と庭園を見ていきませんか?」
と云われ、上り込んで見せて頂いた。
観光寺院ではないので、落ち着いて拝観することができたのであった。
遊歩道はここからは引き込み線の跡である。
すぐ南に江戸時代の姫路藩の学問所、申義堂が新しいなりで再建されている。
またその南には、現在の学問所、高砂小学校、高砂中学校が並んでいる。
もう一度高砂駅址の公園まで戻り、今後は高砂の町を横断してみよう。
銀座商店街というアーケードの通りがあった。
どこでも同じであるが、向こうの入り口まで、人がちらほらで、くっきりと見渡せる商店街であった。
商店街を通り抜け、南へ下がり、高砂神社を見てみてみよう。
高砂神社は大きな神社である。
先ほどの夫婦松の社伝に加えて、ここは戦国の城、高砂城址でもある。
境内の一角に石塊が置かれ、城跡の札もて立てられている。
室町時代に、高砂神社を移設して、この場所に高砂城は築かれたと云われる。
戦国時代には梶原景行が城主であった。
信長軍の播磨攻めの際、三木の別所方に付き、海から運び込まれる兵糧の基地として機能していた。
そのため、秀吉軍に滅ぼされたのは良くご存じのことであろう。
その後、姫路城主となった池田輝政が再建して支城としたが、一国一城令により廃城とされ、その跡に、高砂神社を戻したと云われている。
3
今度は北へ向かう。
暫く行くと入江のようなところがあり、ヨットや漁船が係留されている。
加古川から分流した堀川運河である。
何かのイベントがあるらしく、人も集まっていた。
この辺りは高砂の港である。
漁協もあり、それなりの建物もある。
少し町中へ入って見ると、舟板を板壁とした虫籠窓の住宅やら、大きな倉庫群も見られる。
古い町並みであることが良くわかる。
更に北へ進む。
堀川に面して、大きな工場がある。
MB製紙の工場である。
工場の前の道を挟んで、卯達(うだつ)の住宅が何連か見られる。
あちこち行ったので時間も無くなってきた。
駅に戻ろう。
駅との間にショッピングセンターがある。
昭和51年の創業で、この東播地域では最初のモール型ショッピングセンターだそうである。
その中を通り抜けて、元の駅に急ぎ戻ったのであった。
戻る途中に穴子焼きの店を発見した。
有名なのであろうか? 本日は売り切れの札が掛かっていたのは残念であった。
最後にそのそばの観光案内で聞いて見ると「にくてん」は高砂のB級グルメとして、町全体で力を入れているということであった。