1
 今から20年前の1995年1月17日午前5時46分52秒、関西地方を文字通り揺るがす「兵庫県南部地震」が発生した。
この地震、その被害の大きさから阪神・淡路大震災と名付けられた。
過去のことではあるが、まだまだ記憶に新しい。
 地震直後から先ず人命の救出・救護、当座の生活場所の確保、ライフラインの復旧が行われたが、しかし…。
残念ながら、この地震でお亡くなりになられた方は、行方不明も合わせて6千有余名、この地震は直下型であったため、その9割方は家屋倒壊と家具の転倒による圧死だったと云われている。
縦揺れであるので、1階部分が屋根や2階部分の重量に耐えきれず倒壊し、その1階にいた人に犠牲者が多かったと云われている。
何の前触れもなく、突然とやってきて、逃げる間も何もなく、多くの人はその瞬間に死出の旅を止む無くされたのである。
また大規模な火災も発生した。
その意味では、近年に無いむごい地震であった。
 阪神電車の「青木(おおぎ)駅」と云えば、地震の後、マスコミで毎日のように報道されたので、ご存じの方も多いであろう。
この駅は東隣の深江駅と併せて、神戸市でも大阪府に最も近い東灘区にある。
 大阪神戸を結ぶ電車の線区は4線区ある。
JRの新幹線、東海道線、阪神本線、阪急神戸線である。
新幹線は高架橋の落橋を受けて、直ぐには運転再開とはいかなかったが、在来電車は被害があった箇所を避けて、ほぼ翌日から運行可能な区間の運転を再開した。
 大阪から運転が可能なところは何処までかと云うと、尼崎を過ぎ武庫川を渡って西宮に入った直ぐの所、それぞれ甲子園口、甲子園、西宮北口という駅までであった。
人々はこれらの駅から、神戸の市内まで3時間も4時間もの時間を掛けて歩いたのであった。
 直後は、リュックを背負ってマスクをした人たちが列をなして歩いた。
一つの流行スタイルともなったのである。
今でもそのような姿の人を多く見かけるが、震災のことを思い出してならない。電車事情は一週間程経って、先ず阪神電車が神戸市内の入口まで開通した。
その入口の駅が「青木駅」である。
地震から9日後の1月26日の運行開始であった。

その後、JRが2月8日に住吉駅まで開通した。
阪急はというと、ダメージが大きすぎて、直ぐには神戸市内には入ることができなかった。

 その後全面開通を迎えることになる。
JRは4月1日、新幹線は4月8日、阪急が6月12日、阪神が6月26日と云う風にである。青木には一番早く大阪から電車が通じたので、そのニュースが当時は良く流された。
それにより、青木と云う街と駅が皆に知れ渡ったのである。

                2
 前置きが長くなったが、今回は青木駅での途中下車である。
青木駅は現在高架工事の終盤であり、出入り口ともややこしいが、完成した暁には綺麗な高架駅になるとのことである。
 下車して東方向へ進む。
八坂神社という神社がある。
その境内の隅に「本庄村道路元標」という石柱が建っている。
 かつてはこの辺りは本庄村と云った。
青木、深江、本庄という現在の住所地で言うと青木、深江、本庄が旧本庄村だったことを物語っている。
 阪神高速の高架道路の向こうに新しい酒蔵が見える。
「松竹梅」で有名なT酒造の白壁蔵である。
そしてその東側にSMW大きな工場がある。
SMW工業と云う会社の工場である。
航空機や特装車や水中ポンプなどの製造メーカーで街中や空港で良く見かける大型の重機を造っている。
 その東隣に大きな学校が境界を接している。
住所地も青木から深江と変わる。
校門まで行って名前を確かめると「神戸大学 海事科学部」とある。
イメージ 1

聞いたことが無いような名前であるが、よく考えてみると元の神戸商船大学である。

 今まで訪れたことは無いので、中を見てみようと学内に入ってみた。
以前の商船大学であるから、何か変わるところがあるのか?と興味を持ったが、学内通路から見える校舎は普通の建物ばかりであった。
学食を見つけた。丁度昼時であったので、昼を学食で頂くことにした。
 学休期であったので学生さんも少ない。
メニューケースを眺め、トレイを持ち、麺類のコーナーへ進み、かき揚げ蕎麦と注文した。
出来るまでの間、サイドメニューの棚から冷奴をトレイに乗せた。
勿論値段は市中と比べれば格安である。
イメージ 2
 さて頂いてみよう。
特段に凄い物ではないが、空腹を満たすには十分である。
美味しく頂き、久しぶりに学生気分を味わったのであった。
                3
 阪神高速を越えようと歩道橋へ登って行く。
上から北方向の高層住宅の間に綺麗な学校が見える。
早速、行ってみよう。
 同じような大きな綺麗な校舎が2つ並んでいる。
一つは本庄小学校、も一つは本庄中学校である。
同じ形をしていて、全くうり2つと云って良いくらいである。
イメージ 3
イメージ 4
 違いを良く見ると、小学校の塔屋には寺院の五重塔にあるような五輪、中学校には神戸の象徴なのか風見鶏、そして中学校の窓の数が一つ多いくらいであろうか…。
両方とも震災で校舎が被災したため、3年足らずでお揃いの校舎が新築されたものである。
 もう深江駅が近くなっている筈である。
学校の前の道を東に向かう。
水路を渡り、深江駅へ向かう道を辿ると駅近くに神社がある。
大日神社という。
 ここも被災したらしく新しい鳥居や本拝殿になっている。
 その境内に「魚屋道(ととやみち)」という石碑と説明板が設けられている。
イメージ 5

この魚屋道は六甲山を越え有馬温泉へ至る最短コースでと云われている。

 幕府が定めた正規の有馬温泉への物流のルートは、東の西宮・宝塚から船坂峠を越える道であったが、かなりの遠回りとなり時間も掛かる。
それを嫌った深江の魚の運び手達は六甲越えを常用したそうである。
本来は通ってくれるはずの西宮や生瀬の宿屋達が大坂奉行所に「抜け荷の道」であるとしばしば訴え、紛争は絶えなかったと云われている。魚の運搬は時間が勝負である。
深江の魚は大正時代までこの道で有馬まで運ばれたのは当たり前と云えば当たり前と云える。

 この深江や青木、即ちかつての本庄村は東の芦屋川と西の住吉川の作る扇状地に挟まれて凹んだ海岸線をしていて、遠浅な海域であり、漁業の街として栄えたところである。
 かつては六甲山も最高峰も含めて本庄村が所有していた本庄山と云われる山であったが、神戸市の政策により買い上げられ、六甲山は現在、この地と関係が無くなっている。
 青木と云う地名であるが、ここの北の六甲山麓にある保久良(ほくら)神社の祭神・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)がこの浜に青亀(おうぎ)の背に乗って漂着したという伝承があり、それが青木(おおぎ)の地名の由来になっているとのことである。