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 富士宮やきそばという2度もB-1グランプリの優勝の栄冠に輝いたB級グルメがある。
 勿論のこと、名前の通り静岡県富士宮市で培われたやきそばである。
 登録商標となっていて、誰もがこの名前を使って阪売することはできない。
 いろんな制限の下で、販売が可能とされるものである。
 その制限とは、
1.富士宮やきそば専用の麺を使用すること(市内4社のものに限る)
2.肉かすを使用する(一般に「油かす」とか「かす」とか呼ばれるものである)
3.仕上げに削り粉をふりかける
この3つである。
 さらに、このやきそばを統括する「富士宮やきそば学会」の研修を受け、認定された「麺許皆伝書」を取得することとなっている。
そして商標使用に関しては、売り上げに応じてロイヤリティーを支払うことともなっている。
 当たり前と云えば当たり前であるが、それなりに美味しいやきそばであろと、一度は食べてみないと、と途中下車で対応することにした。
 わざわざ富士宮市まで行かなくても手近で食べることができる。
創業は戦後すぐの鉄板焼きそば専門店で、関東・中部・関西・九州で幾つかの店舗を展開する「BJ屋台」である。
 以前、同じB-1グランプリを獲得した「ひるぜん焼きそば」を食べに行ったことがある尼崎の店舗を再訪問することにした。
 JR尼崎駅で下車し、そのまま陸橋を渡った所に大きな商業ビルがある。
デパートなども入居しているビルである。
その一階奥にフードコートがあり、幾つかの店の間に目的とする「BJ屋台」がある。
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 混まない内にと昼少し前を狙ったのが良かったのか、テーブルは半分ぐらいの詰まり様である。
掲げられたメニューパネルの中にしっかりと富士宮やきそばのパネルもある。
レジカウンターで注文、呼び出しベルを受け取り暫く待つことになった。
 待つ時間は長く感じるものである。
10分も待ったであろうか? ベルに呼び出されカウンターに受け取りに行った。
 富士宮やきそばを暫く眺めてみるが、何の変哲もない焼きそばである。
変わった所と云えば、刻ん葱がしっかりとトッピングされているぐらいであろうか?
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さて頂いてみよう…。
具はキャベツ、玉葱、モヤシ、それに油かす、そして魚粉が少々振り掛けられている。
麺は焼きそばにしては細めで、もちもち感は少ない。
どりらかと云うとシャキシャキの焼きそばである。
ソースは薄めであるのでコテコテ感は無い。
その分、素材の味は楽しむことができる。

 あっさりした焼きそばである。
これが富士宮なのか?と思いつつ、物足らないまま、完食してしまったのであった。
 富士宮やきそばの歴史を少し調べてみた。
 先ずはやきそば用の麺である。
戦後の食料難に、ある食品会社の創業者が戦地で食べたビーフンを再現しようとし、生まれたのがこの焼きそば用の茹で無しの蒸し麺とのことである。
 どうして麺の開発に力を注いだのか?
その背景には、富士宮の事情があった。
富士宮は富士山本宮浅間大社の門前町であり国鉄身延線も走っている静岡と山梨の中間点で物資の集積場所であった。
太平洋戦争の前後には山梨から物資の調達に来る買い出し客や、物々交換で物資を求めて来る人たちが多数詰めかけた。
それらの人々の中には山梨にやきそば麺を持ち帰りたいという人がいたそうであるが、当時は保冷技術や運搬手段が未熟であり、山梨に到着するまでには麺が傷んでしまうということが往々にしてあった。
それを何とかしたいと云うのがこの麺の開発に繋がったとのことである。
 また、なぜ油かす肉かすが使用されたのであろうか?
当時、焼きそばやお好み焼きには天かすが使用されていたが、天かすが不足していた。
そこで天かすの代わりにラードを搾った後の肉かすを使用してみると、天かすよりも美味い味が出たとのことで、以後肉かすが定番となったとのことである。
 素材や焼きそばの焼き方は工夫されたであろうが、それを食べる客がいないことには焼きそばは商売として成り立たない。
 当時の富士宮では製糸業が盛んで大手の製糸工場が操業されていた。
そこの女工さん達の休日の外食は、お好み焼きとは違う目新しい焼きそばを求めたと云うことが追い風となった。
さらに、戦争が終わって満洲から復員してきた人達が現地で食べた炒麺に似たやきそばを好んで食べ、流行したとも言われている。
 戦後うん十年、名物には人の努力とそれを育てる追い風があった。
そしてグランプリを2度も獲得した頃から、全国に知られる焼きそばとなった。
今や、カップ麺やら袋めん、その他の応用商品が多数となり、目に触れる機会が多くなった富士宮やきそばである。