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大阪御堂筋の北にある淀屋橋駅は、良く乗換駅として利用する。
京阪電車と地下鉄御堂筋線との乗換である。
両方とも地下駅であり、地下の移動で済み、便利ではある。
しかし駅であるので、地上への出口もある。
その出口の中にはビルのレストラン街へ繋がっているようなものもあり、行って見たいと思うが、いつも人が多いので昼食時間であっても敬遠していた。
さらに出口を出て、付近の店を探すのも時間が掛かりそうなので、いつもは淀屋橋での昼食はパスしていた。
今回は時間の余裕が少しあったので、地下から繋がるビルのどれかに行って見ようと駅からの出口、即ちレストラン街への入口を覗いてみた。
その中に「HKS」という看板があった。
大阪のオムライスの元祖である。
名前は知っているが入ったことはなかった。
元々、鶏肉やトマトケチャップは好きではないので、チキンライスやオムライスを敬遠していたこともある。
しかし今回は折角の機会だからHKSに触れてみようと、エスカレーターで上がってみた。
カウンター10席くらいの小さな店である。
支店なんだなと思い、これなら気楽にと、椅子に座った。
先客は3名、まあまあゆったりである。
オムライス専門店であるので、メニューはオムライスのみ。
混ぜ物の種類で「〇〇オムライス」と列記されている。
チキンは外し、ハムと云う昔風の名前があったので、オムライスの原点に近い物かなと思い、注文した。
カウンター内のシェフの作業を見ることができる。
炒め用のフライパンで、ご飯と具を炒めている。
ほぼ炒まったところで、隣のコンロに火を入れ、今度は別のフライパンで溶き玉子を広げている。
程なく広げた玉子焼きに炒めた具とご飯を乗せる。
手つきは鮮やかである。
それから2~3回フライパンを振ったかと思うと、用意した皿の上に見事に乗せる。
そして女性の店員さんが、別途用意されている鍋の中のソースを掛け、スライスした生姜漬けを傍らに乗せて完成、そのままカウンターに出された。
良くあるオムライスの様に薄焼き玉子でピッシリと巻かれてはいない。
卵の裾がライスの下に潜っているという感じである。
そしてソースも見た感じ赤くは無く、ミートソースの様な色合いである。
早速頂いてみよう。
ソース、玉子焼き、ライスを纏めて口に入れると、第一印象は少し甘いかなという感じである。
炒めたライスはと云うと、一粒一粒が炒め用のソースにくるまれていて、独立している。
これも良くあるベタツキ感のライスではない。
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なるほどと思いながら、次々と口に運んだのであった。
不思議なもので、味に慣れてくる。
最初感じた甘さはもうない。
丁度良い位の味を感じたところで完食となったのであった。
そして最後に生姜漬け、意外とオムライスには合うと思った次第である。
さてこのHKSのオムライス、元祖の経緯はこうである。
HKSの先代が大正年間に始めた洋食屋「パンヤの食堂」でのことである。
当時の常連の客に胃の具合の悪い人がいて、毎度毎度オムレツと白ごはんを注文して食べていた。
そこで先代は、
「毎日毎日、同じものではかわいそうだ」
「毎日毎日、同じものではかわいそうだ」
と思い、マッシュルームとたまねぎに白ご飯を合せ炒めたトマトケチャップライスを薄焼き玉子でくるんだ料理を出してみたと云う。
その客は大層気に入って、
「何と云う料理なの?」
「何と云う料理なの?」
と聞いた。
先代は咄嗟に、
「オムレツとライスをあわせてオムライス」
「オムレツとライスをあわせてオムライス」
と答えたのであった。
これがオムライスの由来と云うことである。
オムライス誕生にはもう一説がある。
大阪より遡ること約20年前、従って明治の終わりごろの東京でのことである。
東京銀座にある「煉瓦亭」というカツレツの元祖の老舗洋食屋がある。
この店では、賄い飯に何か手っ取り早く食べられるものはないかと思案した結果、オムレツを作る際に白ご飯も混ぜた「ライス入りオムレツ」を作ってみた。
スプーン1本で食べられるこの料理はその後、賄い飯の定番となり、客にも提供することになったと云われる。
しかしこれは現在のオムライスとは似て非なるものであるが、これこそオムライスのルーツと云う意見もある。
さて、くだんの淀屋橋のHKSの店内であるが、小生が食べ終わる頃には、全席埋まってしまっていた。
たかがオムライス、されどオムライスである。
その人気に少なからず驚いた次第である。