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 京都東山の南禅寺界隈は、秋の紅葉を愛でる永観堂禅林寺の華やかさはあるが、日頃は落ち着きはらったポイントである。
 この界隈を探索し、ついでに昼ごはんも頂こうと、南禅寺最寄りの京都地下鉄「蹴上(けあげ)」駅で下車した。
地上に出ると並んで南禅寺境内への入口がある。
 この入口は琵琶湖疏水の水運に活用されたインクラインを潜るトンネルである。
トンネルを潜ると、今も使われている疏水の高架水路の下に出る。
水路閣と呼ばれ、京都舞台のドラマに良く登場する煉瓦アーチの背の高い長い構造物である。
 南禅寺の名付けは北に隣接する永観堂禅林寺の南に創建されたことから南禅寺という。
亀山法皇の勅願にて創建された日本最初の禅宗の勅願寺である。
 応仁の乱で荒廃したままになっていたが、江戸時代になって徳川家康の側近である金地院崇伝(こんちいんすうでん)が入り、寺を再興し、崇伝には僧録という臨済宗の寺を統括する役目が与えられた。
そして以後、徳川家が崇敬することになった寺である。
金地院という塔頭の境内には家康を祀る東照宮も設けられている。
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 南禅寺には他に見るべきものが数多くある。
しかし何と云っても三門であろう。
 盗賊の親分に設定されている石川五右衛門である。
歌舞伎の「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」で欄干から、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。・・・」と名セリフを言う場面である。
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 しかし、事実とはかなり違う。
五右衛門は京都丹後の武士の子、親や主君が秀吉軍に滅ぼされ、忍者修業をして秀吉の首を狙う生き方をした。
最後は伏見城に忍んだところを捉えられ、河原で一族と共に釜茹での刑にされたものである。
またこの三門も、大坂の陣で戦死した部下を弔うために藤堂高虎が建立したものであり、時代も違う。
歌舞伎は創作であるので、それはそれで面白ければいいのだろうが…。
そんなことを思いながら南禅寺を後にした。
 南禅寺の三門の横から発する通りを鹿ケ谷通りと云う。
この通りを北に辿って、観光と昼食に向おう。
 この界隈を南北に貫く通りを鹿ケ谷通りという。
南禅寺の境内から発する通りである。
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 南禅寺の塔頭の前を通り抜けると「野村美術館」がある。
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 野村證券の野村徳七が収集した美術品の展示館である。
 その北に、広大な野村家の別邸「碧雲荘」がある。
 17棟の重要文化財があるそうである。
 ここらで南禅寺の境内と離れる。
 碧雲荘の前に学校がある。
 東山中学・高校である。
 浄土宗が経営する学校であり、スポーツが結構強いことで知られる。
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 その先は永観堂禅林寺、紅葉の季節であれば人があふれる所である。
 少し行くと右手に、プチ行列の食事処を見つけた。
 「HDうどん」という屋号である。
 他に店は無さそうなので、2組の行列の後に並んでみた。
 15分ぐらい待ったであろうか?
 「どうぞ」と呼ばれて暖簾を潜ることになった。
 隅のテーブルに案内されて、さて注文である。
 カレーうどんのメニューが充実している店のようである。
 しかし、この時はカレーうどんは重そうだったので、別のメニューを探した。
 そして、出汁も楽しめそうな玉子うどんを注文した。
 長いこと待たされた。
 やっと出てきた。
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 一面ふかふか玉子のであり、期待が膨らむ。
 先ずは出汁である.
 関西でも大阪のうどんがと違って京都の出汁は少し厳し目である。
 大阪は函館の真昆布、京都は利尻昆布の違いであろうか?
 甘めの解放さは無く、「これが出汁ですよ」という京都の出汁の主張を再認識した次第である。
 トッピングの玉子はふんわりである。
 コシの少ない麺と絡ませながら、柔らかく頂いたのであった。
 さて鹿ケ谷通り、この直ぐ北で東西の通りの丸太町通りが突き当たる。
 その交点の左右は今度は住友財閥の所有地である。
 左手に主に中国青銅器のコレクションの「泉屋(せんおく)博古館」、右手は住友の別邸、これも広大な「有芳園」である。
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 そしてこの先は、山の手へ一本入って、哲学の道へと繋がっている。
 それにしても、明治から大正に掛けての野村家や住友家の実業家たち、凄い財力があったものと驚愕させられる鹿ケ谷の通りである。

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