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 世の中には色々変わったものがある。
ラーメンにも、まさかと思ったが、そのまさかである。
 酒の街、京都の伏見を歩いていた時、店頭に「薦被り」の酒樽が置かれてあった。
この辺りでは、居酒屋や酒販売店の普通の風景なので、行き過ぎようとしたが、良く見ると、なんと薦には「・・ラーメン」と墨書されている。
 良く見ると「酒粕ラーメン」。
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 丁度昼時、
「これは味わって見ないと…」
と、迷わず店に入った。
 伏見のメインの通り、かつての伏見城大手門に通ずる大手筋から北へ100m位行ったところの「G屋」と云う店である。
 昼時であるが、まだ空席はあった。
早速カウンターでメニューを眺めてみた。
普通の醤油ラーメンに加えて、海苔わかめラーメンが旨そうであったが、ここは「酒粕ラーメン」を注文した。
 待つこと10分位。
出てきた。
味噌ラーメンと見間違うかのような、黄金茶色のスープである。
当たり前であるが、酒粕の匂いも若干する。
 スープを味わって見た。
かなり濃い。
丁度、酒粕で作る粕汁と醤油ラーメンのスープを混ぜたような味である。
酒粕のきつい味と醤油の辛さか? 胃への刺激がキツイ。
 しかし常連さんやファンの人にはこの味が良いのであろう。
客の半分以上は、酒粕ラーメンを注文していた。
とにかく、とやかく言わずに頂くことにした。
 麺は細いストレート麺。博多長浜ラーメンのようである。
好きな麺であるので、これは嬉しい限りである。
もし麺が熟成麺だったりすると、食べるのを途中で止めたかも知れない。
 辛い辛いと思いながら、何とか完食したのであった。
この辛さは、ご飯と一緒に食べるような設計であろうかと思ったほどである。
 かつて味わったラーメンの中で、辛さ一位は富山ブラックであるが、2番目に来る辛さであろうと思われた。
 しかしこのラーメン、酒処伏見らしい特徴を出す工夫をしたのであろう。
その顛末を聞いてみたい気もしたが、もう店は満員、調理場、運び屋さんも忙しそうである。
諦めて店を後にしたのであった。
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 ついでであるので、伏見の町を少し探索して見ることにする。
 伏見の町は町名で、秀吉当時のその時代の町の様子が良くわかる。
 東は山で、桃山と云うが、その山一帯には伏見城があった。
伏見の町は、その城の西麓から更に西にかけて広がっていた城下町であった。
城に近い山裾付近は豊臣大名屋敷が締めていた。
その大名屋敷があったところの現在の町名は、殆どが残っている。
 例えば筒井がいた屋敷跡の町名は「桃山筒井伊賀東町」、毛利がいたところは「桃山毛利長門東町」と云う風にである。
 丹波守の丹波橋、毛利の毛利橋と云うのも残っている。
 南北に走る現在の近鉄や京阪の電車を境にして、西は町衆ゾーンである。
通りで云うと京町通り、両替町通りである。
この辺りから西は当時もそうであったろうと思われるが、商店街、ビジネス街となっている。
 更に西、南に行くと今度は酒蔵街となる。
西南に町を取り巻くように運河があって、酒蔵の立地は、その水運を利用したと云われる。
G社、K社、T社など、大手の酒蔵が並ぶところである。
 この運河沿いは、当時は風情があり、旅籠やお茶屋があった。
薩摩藩の常宿「寺田屋」もここにあった。
そして今も当時の姿を留めている。
土佐の坂本竜馬も政治工作に余念がなかったのであろうが、その寺田屋で謀議中に襲われ、逃げたところである。
 その後、徳川軍と長(+薩?)軍が戦った場所でもある。数の上では徳川幕府軍が数段勝っていた。
しかし、攘夷を叫びながら西洋の武器で武装し、おまけに錦の御旗を手に入れた長州軍が戦いを有利に進めたのであった。
 町屋の連子(れんじ)にはその時の銃弾の跡も残されている。
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 伏見の町割りの北隣に遊郭があった。撞木町廓と云う。
忠臣蔵の大石内蔵助が、カモフラージュのためか、毎日のように出入りしたところである。
この遊郭入口のあたりには、近年まで「伏見XX…」というストリップ小屋があったが、今は壊されて、なくなっている。
 この場所は、京都府知事第2代、北垣国道の時に、若き技術者田邊朔郎が完成させた琵琶湖疏水の終着点にもあたる。
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 現在も満々と水を湛え、疎水が流れ込んでいる。
この疎水、現在も発電に利用されているが、その保有者は関西電力となっており、フェンス内にて管理されている。
 かつては市電を走らせたとか、とかく話題の多い疎水や発電所であったが、今は補助電力程度であろうか…?
技術の進歩には、凄いものがあると思われる。
 伏見にはまだまだ凄いものがありそうであるが、この日は伏見の北半分を歩いただけで、早々に引き揚げたのだった。