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 もうかなり前になるが、かつて法隆寺を訪れた時から、門前の御休み処に「茶がゆ」の幟が立っていたのが気になっていた。
今回JR関西本線に乗り、大阪から奈良へ向かった。
途中に法隆寺駅があることに気が付き、少し時間もあったので思い切って途中下車した。
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 駅から法隆寺までは歩くと少し遠い。
上手い具合に路線バスがあったので早速乗車、法隆寺の門前に数分で到着したのであった。
 寺も見てみたい気がするが、とりあえずは茶がゆである。
バス停の真ん前に民芸調の食事処がある。
店の名は「SK堂」という。
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 大和の茶がゆに加えて梅うどん・そばやくずきりの店頭幕が並べられていて、期待が膨らむ。
 店内に入ってみた。
案内されて、隅のテーブルに腰を下ろした。
注文は大和の茶がゆである。
料理が出されるまで暫く待った。
 白い粥は子供の頃よく食べたが、最近は食べていない。
粥は、米の事情が悪く、食い延ばしをする料理であるが、米飯に比べて食べやすく胃に負担も少ない料理である。
大和では古代、奈良時代の聖武天皇の時代に大仏の建立に民は茶がゆを食べ米を食い延ばして造営のお手伝いをしたのがその起こりと云われる。
以降奈良では茶粥を常食するようになったと云われている。
 粥と云えば、大和の茶粥、京の白粥、河内のどろ喰いと云われ、粥の味や固さや食べ方も土地柄がある。
大和の茶粥は粘りが無くさらっとしているのが特徴である。
茶葉を入れて炊くのでそうなるのであろうか…。
とにかく茶がゆは初体験である。
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 出てきた出てきた。
丼鉢には茶がゆ、添え物に切り干し大根と人参の煮物、それに梅干しと昆布、沢庵である。
先ずは茶がゆを頂いてみよう。
 木の匙に掬って口に運んだ。
ところが思い切り咳き込んでしまった。
きな粉の微粉末を気管に吸い込んでしまったようである。
失敗したと思いながらも暫くは何ともならない、咳と格闘である。
 やっと落ち着いた。
きな粉を混ぜて、再度挑戦である。
ほうじ茶のような味と米のほのかな味、それに豆の味が混ざったような、微妙な味である。
食べやすいので黙々と、突き出しや昆布との三角食べで、たちまち完食となったのであった。
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 さて、続いて法隆寺である。
中心伽藍の門、中門へ向かう。
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 五重塔が近くに見える。
伽藍へは入らずに、この塔を高台から眺めてみようと西円堂の階段を登る。
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 この風景は初めてである。
塔はしっかりと建っている。
 次は界隈である。
西門から退出する。
西門は普通の門である。
そして境内の外は普通の街中の通りである。
 通りにある崩れかけの土塀は何とも言えない。
これこそ斑鳩の情緒であると思う。
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 暫く土塀の間を歩くと広い場所に出る。
広場の中心には古墳がある。藤ノ木古墳である。
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 この古墳は聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子の墳墓と云われているが、他にも候補者がいて確定はされていない。
 周りを一周してみる。
玄室には洋式のドアが設けられ閉じられている。
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 透かしてみるがよくは分からない。
発掘調査が行われているので、石組みしか残されていないのは間違いがない。
近くには資料館が設けられているが、そこまでは興味が無いので今回もパスである。
 この辺りは法隆寺の西南側である。
田畑と近代的な家屋が立ち並ぶところである。
南へ下ると旧街道へ出る。
これを西へ辿ると龍田神社の鳥居へ出る。
聖徳太子に法隆寺の建立場所を示唆した神社である。
 法隆寺建設により、そのまま鎮守社となっている。
この神社。毎年7月に風しずめの祭である風鎮(ふうちん)大祭が執り行われる。
平たく言えば台風除けであろうか…。
 かなり西まで来てしまった。
そろそろ時間切れである。
 通りへ出ると大和郡山行のバスが来たので乗ったのであった。