1
 大阪市の北西部と兵庫県尼崎市との境目に佃と云うところがある。
大阪府と兵庫県の境界を流れる神崎川の川中の島で、通称佃島と呼ぶ。
 この島にある唯一の駅、阪神電鉄の「千船(ちぶね)」駅で途中下車した。
イメージ 1
 佃島はかつてこの地にいた数十人が江戸に移動して、そこも故郷に因み佃島と名付けて住んだ。
それは江戸幕府を開府した徳川家康と関係があるらしい。
佃島のルーツ、佃煮のルーツに辿りつけるかも知れないと思い下車したのであった。
 千船駅は阪神電鉄本社のある野田駅と尼崎駅との中間あたりにある。
各駅停車しか止まらない。
下車すると直ぐ北側は大きな病院である。T病院という。
南側はそんなに広くはない道路が通っていて商店街となっているが、結構古い店が多いような店構えである。
 その商店街を先ずは探してみた。
佃煮の店を求めてである。
和菓子の大きな店の本支店はあったが、佃煮の店は見つからない。
地元の人に聞いてみた。
「佃煮屋さんはありませんか?」
「知らんな…」であった。
また後で聞いてみようと思い、まずは島内の探索である。
 まず島の北の先端まで行ってみよう…。
何かはあるだろう?
北へ進んだ。思い立った途中下車であるので、地図も手がかりも何もない。
目見当・適当である。
しかし歩いても、中々先端までは辿り着かない。
 もうそろそろ着くかなと思っていた時、脇の通りの先に森らしきが見えた。
 何だろうと思い行ってみた。神社である。
 入口の鳥居の脇に「田蓑神社」の石柱、「住吉大明神」の灯篭があった。
イメージ 2
 そういえばこの佃島は元々は、大阪の有名な住吉大社の領地であった。
 まずは本殿へのお参りである。
お参りを済ませ拝殿の横から本殿を拝観した。
イメージ 3
 なんと朱塗りの社が4つもある。
一瞬何のことかわからなかったが、よく考えてみるとここは住吉神社である。
住吉4神を祀っているのは、しごく当たり前のことであると気づいた。
                  2
 本殿の他に東照宮が目に付いた。
東照宮であるから徳川家康を祀っている。
イメージ 4
 家康と佃島との関係だなと思いつつあたりを見てみると、
「佃漁民ゆかりの地」との石柱もあった。
イメージ 5
 徳川家康と佃漁民との関係はこうである。
 天正14年(本能寺の変の4年後)に徳川家康が摂津国の多田神社(清和源氏の神社)に参拝の折、神崎川に差し掛かった時、川が荒れていて途方に暮れていた。
それを見た佃の人々は船を出して、家康を無事向こう岸へ送り届けた。
 それに恩義を感じた家康は佃の人々に漁業の特権を与えた。
さらに将軍家への献魚の役目も命じたのであった。
 数年後に再び佃を訪れた家康は、佃の漁民33名と田蓑神社宮司の弟を連れて江戸へ住まわせたと云う。
当初住居が与えられたのは安藤対馬守、石川大隅守の邸内であったが、後の寛永年間に幕府より与えられた鉄砲洲の地に住むことになり、故郷の佃村に因み「佃島」と命名したのが江戸の佃の始まりであった。
 そして、佃にあった住吉神社も江戸に勧請した。
神社は今も鎮座している。
 余談であるが、江戸時代には佃島として独立して存在したが、現在は月島とくっ付いて大きな島になっている。
地下鉄駅も「月島駅」があるのみで、佃○丁目と云う住所でそれとわかる程度となっている。
佃の佃煮、月島のもんじゃ、それぞれ江戸・東京の名物になっている。
 佃煮を最初に造ったのは。その移住した漁民であると云われている。
移住した漁民たちは、自らの漁で雑魚がたくさん獲れると、保存性の効く佃煮を造り、その後、大量に出来ると売り出すようになったといわれている。
もちろん幕府からの砂糖、醤油の援助もあったものと思われる。
 そして佃煮の保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及した。
さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰り、全国に広まったとされている。
 また明治10年の西南戦争の時には、軍用食として多量の佃煮製造が命じられ、さらにその後の日清戦争でも沢山の佃煮が戦地に送られたという。
戦後、帰宅した兵士は戦場で食べた江戸前の佃煮が忘れられず、佃煮を求めた結果、一般家庭の食卓にも上るようになったと云われている。
                 3
 ひょっとして、移住した漁民たちが大坂にいる時、既に佃煮を造っていた可能性もあると思い、今回その手がかりが見つかるか?と佃に来たのであった。
 残念ながら、大阪の佃島でその根拠になるものを見つけることはできなかった。
 やはり江戸に移ってから、佃煮ビジネスを始めたものであろう。
 田蓑神社(住吉神社)を後にして、佃島の先端を目指して北へと歩く。
そんなに大きな島とも思わないのに、なかなか終点とはならない。
 大きなマンションが何棟かあった。周囲は駐車場である。
その駐車場の脇を入っていった。
4~5mの高さもあろうか?、護岸壁が円弧形になっていてそこが島の先端とわかる。
イメージ 6
 しかしながら折角来たのに、川が見えないのは残念である。
 この先端付近に、向こう岸へ歩行で渡れる橋が無いかと期待もあったが、何もないのは、重ね重ねも残念であった。
元来た道を戻るしかなかったのである。
 この佃島には阪神電車の路線が2系統、阪神高速が1本通っている。
電車や車では一瞬に通り過ぎてしまうが、下車してみるとその広さに少々手を焼いたのであった。
 佃島の途中下車、名物食べ物や土産物は見つからなかったが、江戸佃島のルーツと家康との関わりに思いを馳せたミニ旅であった。