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 東京都中央区月島の北東側の自然の海岸線の形をした所が佃である。
江戸時代は佃島と云った。
その北に石川島と云う陸続の島がある。
 月島と佃の間には佃大橋から繋がる高架道路があり、それが境界となっている。
佃地区の北西の地域、佃公園から住吉神社辺りは江戸時代当時の独特の景観を保っている。
この辺りが本来の佃島であった。
 高架道路横の児童公園の辺りから歩いて見る。
公園内の水路の周りはベンチが置かれ、人々が憩っている。
その先に住吉神社に至る赤い神橋がある。
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 橋の向こうは船溜まりとなっていて、漁船も繋留されている。
またこの港の隅には、徳川時代に建てられた神社の大幟の柱・抱が埋設されているとの立て看板がある。
 橋を渡り、右折して早速住吉神社にお参りした。
神官も常駐されているようで、ご朱印を頂くことができたのはラッキーであった。
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 さてこの住吉神社、大阪の神崎川にある中州の佃島から勧請されたことは有名である。
その話はこうである。
『天正14年(本能寺の変の4年後)に徳川家康が摂津国の多田神社に参拝したことがあった。
帰り道に神崎川に差し掛かった時、川が荒れていて途方に暮れていた。
それを見た佃の人々は船を出して、家康を無事向こう岸へ送り届けた。
 それに恩義を感じた家康は佃の人々に漁業の特権を与えた。
さらに将軍家への献魚の役目も命じたのであった。
 数年後に再び佃を訪れた家康は、佃の漁民33名と住吉神社(現在は田蓑神社)宮司の弟とを連れて江戸へ住まわせたと云う。
当初住居が与えられたのは安藤対馬守、石川大隅守の邸内であったが、後の寛永年間に幕府より与えられた鉄砲洲の地に住むことになり、故郷の佃村に因み「佃島」と命名したのが江戸の佃の始まりであった。
そして、佃にあった住吉神社も江戸に勧請した。』(前回の記事より)
このように、佃の住民と神社は江戸へ神社と共に移動をしたのである。
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 神社を後に、正面にある銅版で巻かれた鳥居を潜り、海岸べりへ出た。
海岸は防潮堤でしっかりガードされている。
右手には住吉水門、それと灯台がある。
 住吉水門は先ほどの佃の船溜まり専用の水門である。
水位の高低を調節するものであろう。
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 灯台の辺りはかつての石川島の入口である。
重工業「IHI」の原点である。
灯台の下に石川島人足寄場跡地の石碑ががあった。
この灯台に夜間明かりを灯すことにより、航行の安全を図ったと云われている。
 反対側鳥居の左手には、佃煮を商う店が3軒並んでいる。
 佃に来たならば、佃煮であろう。
 我が国で佃煮を最初に造り、メジャーにしたのは、佃の漁民であると云われている。
家康に連れられ大坂から移住した漁民たちは、幕府から特別の漁業権を得た。
そして自らの漁で雑魚がたくさん獲れると、保存性の効く佃煮を造り、その後、大量に出来ると売り出すようになった。
もちろん幕府からの優遇措置がある関係で、当時貴重であった砂糖、醤油も楽に手に入ったものと思われる。
 そして佃煮の保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及した。
さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰り、全国に広まったとされている。
 また明治になって、内戦である西南戦争の時には、軍用食として多量の佃煮製造が命じられ、さらにその後の日清戦争でも、戦地に沢山の佃煮が送られたという。
戦後、帰宅した兵士は戦場で食べた江戸前の佃煮が忘れられず、佃煮を求めた結果、一般家庭の食卓にも上るようになったと云われている。
 現地の佃煮店のうちの一軒、安政6年創業の「MQ」という店に入った。
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 店のお薦めにより、佃煮の原点である「あみ・しらす・あさり」の3種類のセットを買い求めた。
 御主人であろう? 話好きな人で、作業をしながら佃の歴史について語ってくれた。
その話、殆どは筆者と一致しているが、違うのは一点、それは、家康が佃の住民に助けられたと云うその時機である。
佃煮屋さんの説では、信長の本能寺事件の変の折に、家康が急ぎ三河に帰る時であるとの話であった。
 しかしこの時は家康は堺にいた筈なので、神崎川を渡ることはないと思うが、どうだろうか?
先程の灯台のところの説明看板にも、本能寺事件の折と書かれていた。
佃ではこれが定説なのであろうか?
 帰りに堤防に登り、佃大橋と周辺のビル群を眺め、佃煮をお土産に帰路についたのであった。
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 大阪の佃と東京の佃の場所と場所、家康の時代と現在、時空を超えた結び付きを得ることができたミニ旅であった。