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 東京に出向き、少し時間の余裕ができたので、以前から気になっていた深大寺と云う蕎麦処を訪れようと調べてみた。
武蔵野にあるとは聞いていたが、武蔵野と云われても広大である。
北か南かそれとも西の方なのか、全く分からない。
 こういう時にネットでの検索は便利である。
キーを10回ほど叩くだけで、直ぐに分かってしまう。
しかし、これは他人が調べた結果を見せてもらってるだけである。
それを自分で調査したと思い込んでしまったりすると、ますます人間が不遜で怠惰になってしまうような気がするので、注意しなければならない。
 深大寺と云うところは東京の郊外の調布市にある。
京王線の調布駅、もしくはつつじヶ丘駅からバスで15分ぐらいである。
調布と云えばその町の名前ぐらいしか知らない。
殆ど馴染みがない。
 余談ではあるが、確かその先の府中市は、かつての3億円事件で有名なところである。
その府中にある東芝工場のボーナスを届けるときの事件である。
犯人は白バイに成りすまして、まんまと現金強奪したとのことが長い間語り継がれた。
そして小説やテレビドラマにもされた。
ちなみに東芝府中は社会人のラグビーが強いことでも知られている。
また府中にはJRAの東京競馬場もある。
 新宿から準特急という聞き慣れない京王線の電車に乗って調布駅で下車して、バス乗り場へ向かう。
あいにく駅は工事中であった。
駅舎が見れないのは残念なことである。
バスの乗り方は良くわからないが、とにかく深大寺と表示のところに停まっているバスに乗った。
 途中には、大きな大学があった。
国立大学法人の電気通信大学という。
ここも名前は聞いたことがあるが、あまり馴染みが無い。深大寺入り口と云うバス停で降りた。
深大寺方面へは、街路樹が配置されたしっとりとした並木道のようである。
この並木道を歩いて行く。
暫く行くと、深大寺蕎麦の店がいくつか現れる。
どれも農家風の造りである。
否が応でも雰囲気が盛り上がる。

蕎麦粉を挽く水車小屋もある。但し、新しい造りである。
丁度この時、小屋の燻煙をしていて、周りに煙が立ち込めていた。
これを通り過ぎていくと左手にお堂が見えてくる。
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 深大寺の正面入口から100mほどの参道商店街を通り、重文の山門を潜り、境内へと入った。
右手に鐘楼、庫裏、本堂、そして左上に元三大師堂、その上には開山堂とかが配置されている。
創建は極めて古い寺であるが、何度も火災にあっているので、現在の建物は比較的新しいものである。
 そして寺の奥は広大な神代植物園となっている。
元はこの植物園も深大寺の寺領であったのである。
 深大寺の歴史を見てみる。
創建は奈良時代。奈良六宗の一つ、法相宗の寺院であった。
その後平安時代初期に、天台宗が唐から伝えられた時に天台宗に改宗した。
 この天台宗、京都滋賀の境界にある比叡山延暦寺が総帥として知られている。
天台開祖の最澄の時代には、延暦寺はまだ大きな寺ではなく、最澄が亡くなるとともに寺も衰退した。
それを再興したのが、良源と云う天台座主にもなった僧で、根本中堂などを現在の形にしたと云われている。
この良源は天台中興の祖として崇められ、元三大師、慈恵大師と呼ばれる。
 深大寺の境内を散策し、ご朱印も頂いた。
 さあ、待望の深大寺そばである。
深大寺門前には、20軒ぐらいの蕎麦屋さんがある。
勿論のことお土産屋さんの中にも蕎麦を食べさせるところがある。どの店が美味しいのか、全く見当が付かない。
こんな時には聞いてみることである。

早速、観光案内所に行ってみた。
「どの店の蕎麦が美味しいんですか?」
「どの店が良いかなんて、それは云えません」
と、立場上、当たり前の答であった。
「美味いマズイは、個人的なもんやろうからね…。ほならテレビによく出てるとか、行列ができてるとか、そんなことならええんちゃいますか? 遠いとこから来たんやから、お願いしますわ」
と、旅行者よろしく食い下がる。
こんな時、関西弁は便利である。

早速、効果があった。
「YSと云う店はテレビにたまに出ていますね…。いつも行列が出来てます」
これだけ聞けば十分である。
「ありがとう…。おおきに…」
早速その店に向かった。
 さっきに歩いてきた並木道にある店である。
まだ行列は無く、ラッキーであった。
ガラス戸を開けて入った。
ほぼ満席である。
相席にはなったが早速席を確保し、蕎麦を注文した。
10分ぐらい待っただろうか?
待望の深大寺蕎麦が出てきた。
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 やまかけを頼んだので、すりおろした山芋と生卵が乗っている。
麺も出汁も当たり前であるが関東風。
蕎麦麺も出汁も小生の好みに合う。
美味しく頂くことができたのであった。
お店を出るときには、もう10人ぐらいの行列ができていた。
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 深大寺そばの歴史を調べてみる。
 この深大寺周辺では、元々その土地が米作には向いていなかった。
土地に合う作物と云うことで寺の小作人達は蕎麦を作り、寺に納めていたと云われている。
 寺では蕎麦を必要とする。
仏僧たちは修業時に五穀断ちをするが、その五穀には蕎麦は含まれていない。
修業中は蕎麦を食べても良いのである。
 また寺ではこの蕎麦がことのほか美味いので、来客をももてなしたのであった。
 深大寺そばが外部に有名になったのは、深大寺の総本山、上野にある天台宗東叡山寛永寺の門主、公弁法親王が深大寺そばを周囲の人々をはじめ全国の諸大名にも広めたことがその理由と云われている。
 その他にも、徳川の三代将軍家光が鷹狩りの際に深大寺に立ち寄って、そばを食べ褒めたのがその理由とも云われている。
 その後、八代将軍吉宗は「享保の改革」にて、蕎麦は地味の悪い深大寺付近では最適な作物であると云うことで、深大寺村の農家に督励した。
 しかし、当時蕎麦は一般人とはほど遠い食べ物であった。
この地を訪れる文人墨客にはもてはやされたが、昭和の初期までは蕎麦屋は僅か一軒だけだったそうである。戦後しばらくして、神代植物園が整備されるなど、観光地化されて行き、寺に訪れる人も多くなって蕎麦屋が増えていって、現在の門前の蕎麦屋街が形成されたのであった。

 おそらくは、店により味が違い、特徴があると思われるが、店の外側からは分からない。
丹念に食べ比べてみるしかないのであろう…。
 深大寺には城があったそうである。
その場所は寺の前の通りを挟んで反対側である。
城跡まで行ってみた。
野球場が2つできるような広場であった。
土塁なども残っているが、遺物のようなものが見られなかったのは残念である。
 城跡を最後にして、深大寺のミニ旅を終了したのであった。