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 JR線で瀬戸大橋を渡る時、岡山県側の最終に「児島」という駅がある。
この駅はJR西日本とJR四国の路線の分界点で、乗務員が交代する。
今回はこの児島駅周辺の探索である。
 昔、児島市と言うのがあった様に思うが、今は倉敷市児島となっている。
ここら辺には水島市と言うのもあったと思うが、ここも倉敷市となっている。
ややこしいところではある。
 聞くところによると、この3市、海岸線の埋め立てにより、境界線が曖昧になり、「え~い面倒だ…、合併してしまえ…」そんな冗談っぽい話もある。
 さて児島、名の通り室町時代や江戸初期は瀬戸内海の一つの島であった。
このあたり岡山南部には、○○島という地名が多いが、それは島であったことを示している。
 このあたりは、もともと潮の干満差が大きく、干潟になっていて、埋め立てにより農地の確保がし易いと言うことから、この干拓を考えた。
最初に始めたのは当時の豊臣大名、宇喜多秀家であった。
 秀家は信長が本能寺事件で横死した翌年1583年、岡山に入封し岡山城を構築するとともに、南部の海岸べりの埋め立てを開始した。
江戸期になって岡山は池田藩となり、大々的に干拓は継続された。
 明治になり廃藩置県となったが、旧藩士たちにより干拓は継続された。
そして明治末期から大阪の豪商、藤田伝三郎(藤田組、現同和鉱業)により本格的に干拓が行われた。
戦後は国営事業として農水省に引き継がれ、昭和38年に完了したのであった。
 干拓により農地は増えた。
すると灌漑用の水が不足となるのは当然であった。
そこで児島湾を閉め切り、児島湖として淡水の人造湖も作られたのであった。
 陸続きになった児島半島の南部、現在の児島駅周辺、味野から赤崎沖にかけて江戸末期に塩田を作った男がいた。
昆陽野(こやの)武左衛門という。
約150ヘクタールの巨大な塩田地主となった武左衛門は塩田の所在地から一字づつとって、野崎姓を称するようになったと云われる。
 現在も味野に野崎家の旧住宅が文化遺産として公開されている。
そこではその塩田の歴史を偲ぶ事ができる。
 武左衛門はその後も、今の玉野市あたりに塩田を開き、手広く塩田業を営んだと云われる。 その孫、武吉郎は貴族院議員にもなった。
 隣の玉野市の当時の塩田の一角で、現在も製塩工場として引き継がれている。
イオン交換膜法にて製塩する企業、「ナイカイ塩業」という。
社長はご一族の野崎泰彦氏、創業後185年となる。
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 も一つ、児島は繊維の町と言われる。
戦後すぐに学生服の日本最大の生産地として繁栄したが、現在は学生服離れとともに、ジーンズにその座を譲ってはいる。
しかし生産は殆ど海外が中心となり、空洞化しているようではある。
 堅い解説が先行したが…。
 児島で下車した。
駅前はただっ広い。
市街地の探検は後にして、まず瀬戸大橋が眺められる鷲羽山(わしゅうざん)へ行った。
 鷲羽山行きのバスはとこはいバスの愛称と云い、下津井港を巡って行く。
もともとはこの下津井まで鉄道が走っていたそうであるが、瀬戸大橋線の開業により廃線となり、跡地は風の道という約6Kmの遊歩道の整備がなされている。
 鷲羽山の展望台から眺めた瀬戸大橋は雄大である。
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 向いの坂出の工場街が良く見える。時々白い煙を出す煙突でそれと良く分かる。
丁度橋の向こうに讃岐富士もみえる。
高松市も見えているようであるが、かなり遠い。
 鷲羽山を下山し児島に戻り、市街地探索である。
 ジーンズストリートとして、整備されている商店街がある。
ジーンズを誂えようと思って聞いてみたが、かなりお高い…。
これならスーツを作った方が良さそうであると思い、諦めた。
 ジーンズストリートの先に塩田王、野崎家の旧住宅がある。
ここは綺麗に保存と整備がなされている。
茶室も2棟あり、かなり裕福だったのが分かる。
展示館では、過去からの雛人形が展示されていた。
資料館も見学して、多少の塩の勉強をさせていただいた。
 資料館には、我々が日ごろ目にするおなじみの塩製品が並べられていた。
 現在の会社ナイカイ塩業では、各社の塩製品をOEMで生産しているらしい。
 先ほどのジーンズストリートに戻り、塩を銘打ったお菓子の店を訪ねた。
「K堂」という。
資料館で勉強した塩の菓子を手に入れるためである。
名物は、塩羊羹、塩饅頭であった。
 一つ買い求めて、途中下車のミニ旅は終了したのであった。
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