1
 JR琵琶湖線(東海道本線)の草津駅で途中下車した。
草津は通過駅と云うより、ほとんどの場合は新幹線に乗っているので、この駅の少し南側をいつもは高速で通過している。
普通では、まずは下車しない所である。
 草津には何があるか?
思いつくのは、街の南部の丘陵地に、ここ何年か前から設置されて来ている大学群である。
龍谷大、立命館大、それに滋賀医大など。
それぞれに広いキャンパスを設けていて、学生も多く集めている。
 その他には、やはり旧東海道の草津宿である。
観光化され整備されているのかどうか、興味のあるところである。
早速、訪れてみることにする。
 駅の東口を出て駅前の広い道路を進み、アーケードの筋が直交しているところに到達する。
このアーケード街が旧の中山道である。
左手に行けば、守山、野洲と江戸を目指して繋がっている。
このアーケードの下を右方向に進んで行く。
どこの街にでもあるような商店街である。
時間帯の関係もあるのか、そう人は多くは無い。暫く行くとアーケード街が終り、コンクリートのトンネルを潜る。
これは天井川である草津川の下を潜るトンネルである。
かつては、トンネルなどなく、この上の川土手まで上り、渡し舟のお世話になったと云われている。
トンネルを出たところに川の土手へ登る道があったので行って見た。

イメージ 1
 川には水は無い。廃川になっている。
土手の上の遊歩道を歩くと、かつての川底に広場やスポーツができるような場所が設けられているのがわかる。
近江富士三上山も遠くに見える。
 元のトンネルの出口へ戻る。
この場所に、常夜灯を上部に装備した石造道標がある。
「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」の表示がある。
京都方面から東海道を歩いて来て右へ行けばそのまま東海道、左へ行けば中仙道という街道の分岐点、追分である。この道標の京都寄り手前が草津宿である。
歩いて行くと、右手に本陣と云われる建物が大きく構えている。

イメージ 2
 本陣は2つあったと云われているが、その1つが近年、リニューアルされたものである。
国指定の史跡になっている。
内部見学もオーケーだそうであるが、時間が無いのでパスして先に進む。
                 2
 本陣の道路を挟んで反対側に、当時の脇本陣であり、現在は「芳樹園」というお茶の商店がある。
虫籠窓の商家風建築である。
こちらは登録有形文化財となっている。
 この並びには、観光客のための「観光物産館」(脇本陣)、「まちなか交流施設 夢本陣」、「草津宿 街道交流館」が並んでいる。
夢本陣にはFM草津局が常設されていて、オンエア中でもあった。
 更に歩を進めると、きれいな酒蔵がある。
O酒造で「道灌」という酒銘である。
立ち寄りたいところではあるが、これもパスである。
 他にも町屋風の建築物を眺めているうちに草津宿の出入口に到達した。
広い道路と伯母川という川を渡るとそこには「立木神社」が鎮座している。
江戸時代の参勤交代で諸大名が草津宿通貨の際には、必ずこの神社に道中安全を祈願したと云われている。
そのお蔭か、不思議にも事故災難が無かったと伝えられる。
この神社の起こりは1200年もの昔、茨城県の鹿島神宮と関係があり、神獣として鹿を崇めている。
狛犬ならぬ狛鹿である。
 さて、探索はこれくらいにして丁度昼食時となったので、食事処に向かうことにする。
国道1号線に出たところに宿場そばの看板を挙ている古民家風の店がある。
国道を車で走るたびに気になっていたところである。
 早速店を訪れ、メニューからシンプルな温かいとろろそばを注文した。
料理を待つまでの間、店の能書きを読んでみた。
 この宿場そばという店は無添加というこだわりがあるそうである。
そして蕎麦粉も出汁昆布も北海道産、出汁昆布は1か月も出汁蔵で出汁の熟成を行うそうである。
その出汁に宗田鰹、目近、うる目鰯、鯖節を入れて、旨みを纏めるとのことである。
また大事な水は地下水を汲み上げて使っており、全て自然のもので仕上げている。
勿論のことそばはその日に蕎麦打ちをしたものである。
 そばが運ばれてきた。
イメージ 3
 目論見とは違って出汁を掛けて食べるタイプのものであった。
器へ盛られたそば、徳利に出汁、トッピングのすりおろした山芋と玉子、そして葱と山葵である。
このようなのは、あまり好きな蕎麦の食べ方ではない。
少々残念な気がするが、これが自然の味かとかみしめながら頂き、完食したのであった。
                 3
 建物続きにうばが餅やがある。
400年以上も前の戦国時代からの菓子で「姥が餅」とも書く。
餅を餡子で包み、栗しぐれの縦・横・高さが2倍程度の大きさの形にして、先端に小さい白餡が突起状に乗っている。
イメージ 4
 一口サイズである。
形は乳母に因み、乳房の形を表現したものである。
 謂れはこうである。
近江源氏佐々木義賢が信長に滅ぼされた時、その中に3歳の曾孫もいた。
義賢は臨終の際に後事を乳母の「との」に託したという。
 そして故郷草津に帰った「との」は、養育費を稼ぐために餅を作って売った。
そして、誰が言うともなくついた餅の名前が「うばが餅」であった。
 その後、家康が大坂の陣に出向く時、「との」は餅を献じた。
その時「との」は既に84歳であった。
家康は「これが姥が餅か」と言いつつ、「との」の長寿を喜び、その誠実な生き方を称えたと云われる。
 大坂の陣に勝利した家康は、帰りもここに立ち寄った。
そして家康がこの餅を称賛したという噂が広まり、以来、公家や諸大名が必ずここで餅を求めたと云われている。
 このうばが餅やが明治の時、サイドビジネスとして宿場そばの店を出したのがそばのはじまりとのことであった。
 うばが餅をお土産に買って、店を後にしたのであった。