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 山陰のミニ旅、今回は米子駅周辺である。
米子で訪れてみたいところは、歴史の勉強も兼ねて、まず米子城址である。
米子に下車して先ず訪れたのは、例によって観光案内所。
「城跡はどうしたら行けますか? 有名な神社やお寺は何処ですか?」
この2つである。
「城跡は駅から真っ直ぐ歩いて、大学病院の横から登れます。しかし、石垣しかないですよ。頂上まで小一時間かかりますけど…。 神社はですね。米子の人が初詣に行く勝田(かんだ)神社ってのが有名です。これは駅前の通りを右に歩けば行けます」
と、教えてもらった。
 まず腹ごしらえである。
この辺りは大山蕎麦が有名である。
本当は名峰大山の麓の大山寺あたりへ行くのが蕎麦の正しい食べ方であろうが、そんな時間は無い。
米子の街中で、それなりの店構えの蕎麦屋に入った。
大山蕎麦「DK屋」という。
メニューから山菜蕎麦を注文した。
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 大山蕎麦、なんと出汁が濃いのには驚いた。
味もかなり濃厚、関東風である。
違うのは甘味、こちらの方が少し甘い。
港町であるため、古来から昆布多めなのであろうか?
好きな味なので、美味しく頂いたのであった。
 大山蕎麦は名刹大山寺に由来する。
以前に訪れた比叡蕎麦、深大寺蕎麦、そしてこの大山蕎麦、全て天台宗の寺院にまつわる。
山岳密教の天台では、修業の時に五穀断ちをする。
蕎麦はその五穀に入らないので、蕎麦を食して腹を満たすことになる。
そのため寺では蕎麦を栽培し、美味しく食べると云う手法を開発してきている。
そして蕎麦は修業時に食べるものであるから、疲れた体を癒したり、塩分補給のために、味も濃いめとなっているのではないかと思われる。
 蛇足であるが、大山寺は徳川の時、春日局が籠った寺としても知られている。
局は家光が世継になるように大山寺の不動明王に祈願し、力を得て駿府に向かい家康に直訴したとの謂れもある。
 所用のある時刻まで、まだ多少の時間の余裕がある。
米子城址へ向かった。
広いメイン通りを歩いて、大学病院の横まで来た。
そこから病院に沿って左折、城の登り口に到達した。
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 米子城は湊山という山に築城されていた。わずか90mの山であるが、海のそばなので、かなりの高い山に見える。
現在、この湊山の山麓は公園として、スポーツ広場を始め市民の憩いの場所となっている。
そして城跡は国の史跡として認定されている。
 予備知識はこれだけである。さあ登ってみよう。
一気に90mを登るのである。
つづら折りの石段やスロープが続く。
汗が噴き出てくる。
汗を拭きながら登ったのであった。
 途中に「内善丸跡」への分かれ道があった。
行って見るとそこは広い平地であった。
家老の横田内善が建立したとのことで、その名があるのだそうである。
武器庫と二重櫓で、戦争への備えの場所だったようである。
 丁度半分を過ぎたころである。
本丸・天守を目指して、まだ登らないといけない。
 暫くして、やっと明るい場所に出た。
何と何重もの石垣が積まれている。
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 そう高く傾斜も少ないが、かつての遺構であるかと思うと感慨深い。
石垣伝いに回り込んで、海側の水手御門跡の所から一段上がると広い場所に出た。
本丸跡地である。
更に一段高い石垣がある。天守の跡地である。
天守跡は礎石が綺麗に残されている。
ここには四層の天守が建っていた。
天守は、尼子氏と敵対する毛利の先鋒、吉川広家の手によって構築されていたと云われる。
しかし広家は、関ヶ原の敗戦で移封され、入居することは無かった。ここからの景色は絶景である。
遮るものは何も無い。
右手の弓ヶ浜、左手の中の海は、勿論良く見える。
晴れていれは大山の雄姿も見られるはずであるが、雲が掛かっていて残念であった。
 この城の主は誰だったか?
関ヶ原の後、駿府城主中村一氏の子である中村一忠が11才で伯耆の国主として入城し、米子藩を立藩した。
しかし、この米子藩、家康から後見を命じられた横田内善と、一忠側近との内紛が勃発し、内戦までに発展し、多くの家臣が死んでしまった。
また、一忠も程なく亡くなったため、お家は改易となった。
その後に岐阜から加藤貞泰が入ったが、加藤は大坂の陣で功績があったため伊予の大洲に移封された。
 その時に米子藩は廃藩となり、池田光正の治める因幡の国(鳥取藩)の出先となり、幕末まで続いたのであった。
僅か20年ほどの間に、めまぐるしい動きをした米子城、米子藩であったことは否めない。
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米子の用向きを済ませて、夜のJRで戻ることになる。
その前に米子名物である。
 米子には江戸時代からの伝統を持つ鯖ずしがある。
『GZM鮓』という。
鯖の肉厚の身を酢飯に乗せ、一枚ものの昆布でくるみ、更に竹の皮で包んだ棒ずしである。
 謂れは、米子の「米屋」という回船問屋がこの地方の良質な米を全国に出荷していたが、その女将さんが船の航海の安全を祈願して、船子たちにこの寿司弁当を振る舞っていたのが、起こりとされている。
その鮓が山陰名物の「GZM鮓」となったのである。
 駅の売店で購入し、列車に乗った。
鯖の臭みも酸味もなく、美味しく頂けたのであった。