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 滋賀県琵琶湖の西岸を高架で走る湖西線は、関西と北陸方面を結ぶ路線である。
この線を利用する時は概ね特急に乗っているので、湖西線全駅をパスしてしまうのが通例である。
 しかし湖西には沢山の名所がある。
今津竹生島、朽木郷、近江舞子、比良山、堅田、坂本比叡山、唐崎、近江京、三井寺など思いつくだけでも結構な数である。
 思い立って各停に乗り、比叡山東麓の「比叡山坂本駅」で途中下車した。
久しぶりに坂本の町を歩いて見よう…。
 湖国坂本の町は、比叡山延暦寺、日吉大社、そして西教寺と大きな寺社の麓の門前町として古くから栄えている。
そして光秀の坂本城の城下町でもある。
叡山も含めてこの坂本に、日本の歴史が集約されていると云っても云い過ぎではない。
 しかし今回は途中下車であるので、軽く行こう…。
駅から山に向かって歩いて行くと坂本の町になる。
日吉大社への参道である。
石の鳥居をくぐって歩く。
 2つ目の大鳥居から向こうは境内のようであり、民家の街並みは無くなる。
その鳥居の手前に、「日吉そば」の大きな店、「鶴喜そば」の大きな店がある。
坂本名物の比叡蕎麦の店が2つ並んでいる。
あとで頂くことにして、まず神社へのお参りを済まそう…。
 鳥居を潜り、両側に石灯篭がある広い参道を進む。
延暦寺の僧坊やら塔頭やらが並ぶ。左手に比叡山中学がある。
町の喧騒から離れて、仏神に守られて、杜の中で学ぶ子らは幸せであろう。
 途中右折れして、先ず日吉大社東本宮へ向かう。
日吉大社の創建当時の社である。紀元元年ごろ、2100年前の創建と云われている。
『古事記』に「大山咋神(おおやまくいのかみ)が近淡海国の日枝の山(比叡山)に坐し」とある。
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 崇神天皇の時に創建され、現在は東本宮となっている。
 次は西本宮である。天智天皇が大津京を開いた時に、都の鎮護のために大和の大神神社を勧請したものである。
1400年ほど前のことである。
祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)である。
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 この祭神の方が位が上位であるとのことで、西本宮が大宮と呼ばれるようになったと云われている。
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 その後の平安京遷都により、日吉大社が京の鬼門に当たるとのことで、災難除け、方除の神社として都人からも崇敬されるようになった。
最澄が山上に延暦寺を建てからは、天台宗延暦寺の守護神として崇敬された。
そして中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって「山王権現」と呼ばれるようになったのである。
 また延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。
比叡山の僧兵が神輿を担いで、京に強訴した有名な話がある。
その時、担ぎ出し神輿は日吉大社のものである。
 戦国時代になって、織田信長の比叡山焼き討ち事件があり、もちろん日吉大社も焼かれてしまった。
現存する建造物はその後に再建されたものである。
幼名を「日吉丸」という豊臣秀吉は、その名前とあだ名「猿」から、この神社を特別なものであるとして、再建などに優遇したと云われてる。
 日吉大社を後にして、慈眼大師天海和尚が家康を祀った日吉東照宮、それと大師自身の墓所慈眼堂、それに天台座主の居所である滋賀院を経由して、先ほどの食事処へ戻って来たのであった。
 途中、穴太(あのう)衆積みの石垣がそこここに見られる。
加工しない自然のままの面を巧みに用いた石積みは、とても綺麗である。
 聞くところによると、2つの蕎麦店にはかつて棲み分けがあった。
「日吉そば」は日吉大社のご用達、「鶴喜そば」は延暦寺ご用達だそうである。
今回は神社にお参りしての帰りであるので、そちら日吉の方にしたのであった。
 早速、山菜そばを注文して、暫く待った。
この店はエアコンが装備されていない。
山麓であるので夏も涼しいのであろうが、近年は特に暑い。
集客に大いに影響しているのではなかろうか?
是非とも付けて欲しいものである。
 そばが運ばれてきた。
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 麺は信州風、余り黒くはない。少し太目である。食感は良い。
出汁は少しばかり甘い目である。
そして具の山菜はお決まりの物であるが、たっぷりのっている。
汗をかきながら、それでも美味しく頂いたのであった。
 これらの店は、正式に店として営業しだしたのは江戸時代であるが、その前も茶店・屋台のような形で蕎麦を出していたのであろう…。
町には蕎麦なんてなかった時代であろうか?
この蕎麦が広まって行ったのであろうと思われる。
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 もう一方の鶴喜そばは味は辛めであると聞いた。
過酷な山登りが必要な延暦寺派は塩辛く、麓の日吉大社は甘めであると云うのは、とても頷ける話である。
 坂本にはそば打ち体験道場もある。日々定員6名だそうである。
スケジュールを見てみると、11月末までは満員であった。
 そば道場は、この参道でそば粉を製粉する専門工場がやっている。
「Yそば製粉」と云う。
この会社は叡山一帯に必要な蕎麦粉を供給し続けているのである。
 最後に叡山の蕎麦の切っても切れない関係を一つ…。
 叡山には修業「千日回峰行」というのがある。
これは叡山山中を7年で千日間、経文を唱えながらひたすら歩くものである。
修行者は五穀と塩断ちをする。
五穀とは一般に米、麦、粟、豆、稗をいう。
これから漏れているのは蕎麦と野菜であり、それを食べながら修業を続けるのである。
叡山の僧にとって蕎麦は命を繋ぐ食べ物であったのである。