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 東京の総武線各駅停車の駅に両国と云う駅がある。
浅草橋と錦糸町に挟まれた駅である。
時間が出来たので今回はここで途中下車して、界隈を歩いて見ることにした。
 駅の北側には国技館や江戸東京博物館があるが、かつて訪ねたことがあるので、今回は馴染みのない南側に行って見る。
 少し歩くと広い道路、京葉道路に出る。
その向こうに変わった形の寺門らしきものが見える。
早速、行って見る。
回向院(えこういん)と云う寺である。
早速、寺務所へ行って、説明看板を見てみる。
 この寺はいろんな由緒がある寺である。
有名な江戸の「振袖火事」と云われる明暦の大火事の後に開かれた浄土宗の寺院である。
この火事で江戸市中は焦土と化し、10万人以上の人が亡くなったと云う。
身元の分からない人も多くあり、それを慮った当時の将軍家綱は、手厚く葬るようにとこの地に寺領を与え万人塚とお堂を設け、大法要を執り行ったことに始まる。

 江戸後期には、勧進相撲の開催場所がこの寺院の境内に定められ、天保年間から明治時代末期までの76年間、回向院相撲が行われたのであった。

その明治末期にはこの地に国技館が開設され、相撲専用の体育館で興行されるようになったのである。
戦後になって、GHQの差配でこの場所での相撲本場所開催は許可されず、蔵前に国技館が建設されたが、近年になって地元の絶大なる意向で、この場所とは違う駅の北側の貨物ヤードの跡地に国技館が戻され、現在に至っているのである。

 またこの寺には、鼠小僧の墓がある。
その義賊としての振る舞いは江戸の市民に信仰されている。
現在の墓の前には削り石が置かれ、削ることで御利益を得ようと、受験生など参拝者が多数と云われている。
 また関東大震災の時には、この寺の住職は役僧を引き連れ焼野原を歩き、亡骸を見つけては巡回回向したと云われている慈悲深い寺院でもある。
 回向院の裏門から出て、東に向いて歩く。
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 暫く行くと「本所松坂町(ほんじょまつざかちょう)公園」がある。
と云ってもオープンな公園でなく、屋敷塀に囲まれた公園である。
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何かと云えば、ここは例の元禄赤穂事件で討ち入りが行われた吉良義央(よしひさ)上野介邸の跡地の一部を公園化したものである。

討ち入りののち、2500坪もあった吉良邸は幕府に没収され、その後住宅などが立ち並び、当時の偲ぶものは何もなくなっていた。
昭和の時代になって地元の有志らが「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入して、東京市に寄贈して公園として開かれたものである。

 公園の中には、稲荷神社や首洗い井戸などが所狭しと並んでいる。
尚、この公園は当時の吉良邸の86分の1の広さだそうである。
また討ち入りの12月14日には義士祭も行われ、多くの人でにぎわうと云う。
この公園の前には吉良饅頭を売る店もあったが、今回はパスである。
 吉良邸を後に、更に東に行って見る。
両国公園という公園の中に、勝海舟生誕の地と云う石碑がある。
勝海舟は幕府側にあって、江戸城の無血開城や米国との交渉を行うなど、幕末維新の混乱期の収拾に力を発揮した人物として良く知られている。
説明によると、生誕から7歳までこの地で過ごしたと云うことである。
 公園をあとに更に東に進む。
大相撲で有名な二所ノ関部屋がある。
前を通ったが、玄関は閉ざされヒト気が無いようであった。
時間帯が悪いのか? あるいは巡業に行ってしまった後なのか? わからないが、残念である。
 その東は清澄通りである。
この通りを北進して、京葉道路を西進、両国駅に戻る方向とした。
 最後に名物である。
先程の回向院と駅との間に、国技堂と云う店がある。
「あんこあられ」というお菓子が有名だそうなので行って見た。
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 菓子はU字型のあられの溝の部分に、餡子を乾燥固めたものを抱いているようなものである。
餡子と相撲のあんこ型力士とを掛けている、両国らしい名物である。
 聞いて見ると関東大震災の直後の創業ということであった。
購入してお土産とし、両国駅に戻ったのであった。
 両国駅付近でスカイツリーの全容が見える場所を探した。
国技館の振れ太鼓の櫓にそって少し見えたのがラッキーであった。
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