1
 徳島に所用で出かけた。
用事は午後からなので、昼前に到着することにして、待望の徳島ラーメンを楽しむことにした。
 最近でこそ、各地のご当地ラーメンが話題になるが、徳島ラーメンは、いつごろからだろうか…?
一説によると、新横浜のラーメン博物館に期間限定で出店してから有名になったと云われている。
 徳島と云えば、阿波踊り、それに鳴門の渦潮とわかめ・金時芋、金長まんじゅう、かずら橋、祖谷そば、大歩危・小歩危、等々…、これらは歴史ある観光名所・名物である。
 徳島ラーメンは近代の食品産業に伴って、考え出されたと云われる。
食品産業とは食肉加工会社「徳島ハム」である。
「日本ハム」と云えば現在はメジャーなので、殆どの方が御存じであろうが、その前身である。
 ハム工場は、廃物として豚骨・豚ガラが豊富に出る。
それを有効に利用したのが徳島のラーメンの始まりと云われる。
戦後間もなくのことであった。
 現在、徳島ラーメンにはスープの色により3種類が存在すると云う。
もともとは全国同じように中華料理の中華そば(黄色いスープ)が主流であった。
 そこに開拓者が現れた。
ハム工場から出てくる安価な豚骨・豚ガラを使って、
白スープのラーメン作りを始めた。
それは徳島市の南の小松島から始まったと云われている。
 当初は屋台での営業であった。
その屋台が徳島市にも出て、徳島でも広がったと云われる。
徳島では豚骨だけでは飽き足らず、その豚骨スープに濃い口醤油で味付けしたのが、黒スープと云われている。
徳島市で主流の徳島ラーメンである。
しかし小松島について云うと、今も白いスープが主流だそうである。
 予備知識はこれだけにして、早速ラーメン店へ向かって見よう。
目指すは一番の有名店、ラーメン博物館にも出店した「IT」である。
 徳島駅から正面の眉山を目指す。大きな通りの2本目で右手へ…。
このポイントは阿波踊りの歌で歌われる新町の交差点である。
この先には阿波踊り会館もある。
そしてその先の眉山の裾野には神社や寺院が密集している。
時間があればお参りするところだが、まず急ごう…。
右折してひたすら道路沿いに歩道を歩く。
                                                    2
 駅から20分も歩いたろうか?
目指す店の周りにある駐車場の看板がまず目についた。
「なるほどね…。駐車場の看板を大きく目立つように書いておくと、遠くからでも分かりやすいね…」
と思いながら店の入り口に到達した。
 店の表に行列がなかったので、ラッキーと思いながら店内に入った。
 空いてる席があったので座ろうとすると、
「食券を買って下さい」
の店員さんの声。
 食券システムである。
見ると券売機前に数人の行列がある。
よくわからないまま「中肉(600円)」のボタンを押して、食券を持って案内を待った。
 店内は大きなコの字型のカウンターが2つである。
座席は合計30席くらいであろうか?
カウンターの中にはそれぞれ3人ぐらいの店員さんがいて、
客と注文を手際良くさばいている。
その案内を待ってカウンターに座った。
 客も常連が多いのだろう。
両側の席が空くと自然に詰めたりして、気持ち良く二人連れなどに席を譲ったりしている。
気持ちのいい店である。
 さて、肝心のラーメンはどうか?
待たされるという感じはなく、以外と早く出てきた。
好感である。
イメージ 1
 醤油の濃い目のスープに豚バラ肉の煮物らしきものが乗っている。
チャーシューの代りに煮豚である。
あとは、あまり漬け込んでいないメンマとモヤシ、ネギ、少々…。
 スープは普通の味で、色ほどは辛くはない。
豚煮は少し厚め…。味はかなり辛い…。
 塩辛い富山ブラックの再来かと思ったが、そこまでは行ない。
スープと混ぜると甘辛の微妙なラーメンで、少々辛いと思ったが、美味しく味わえた。
 聞くと、このラーメンはおかずラーメンが基本であったそうである。
少し胃に刺激がある方が、ご飯も進む…。
そして、ラーメン鉢も小さい。
中サイズでも、他のラーメンの小ぐらいの大きさである。
空腹でご飯と一緒に食べると、さぞや美味いだろうと思った。
 徳島ラーメンと云えば、生玉子が乗っている写真を良く見る。
この店でも、生玉子を注文する人が多い。
味がまろやかになるとのことであるが、残念ながら試してはいない。
                                                  3
 所用が済んで若干の時間ができたので、徳島駅裏の城跡を見に行った。
 阿波踊りのお囃子よしこのに乗って、
『えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよいよい…
踊る阿呆に見る阿呆…、同じ阿呆なら踊りゃな損、損…』
に続いて、歌詞
『阿波の殿様 蜂須賀様が
今に残せし 阿波踊り
……         』
とある。
 徳島城は、天正13年(信長横死の本能寺の変から3年後)に、豊臣秀吉の四国征伐に戦功のあった蜂須賀家政が阿波国を貰い、入府して城を築造したものである。
家政はご存じ矢作川で少年時代の秀吉・日吉丸と渡り合った蜂須賀小六の息子である。
以後、江戸時代の終わりまで徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎えたのであった。
 徳島城は廃藩置県で廃城とされ、廃却された。
当時の名残は60mの高さ位の城山や堀の石垣のみとなっているのは残念なことである。
 廃城後も城の表門であった「鷲の門」だけは唯一残されていたが、それも徳島空襲で破壊され、現在のは戦後に再建されたものである。
 さて阿波踊りであるが、原型は精霊踊りや念仏踊りであるといわれる。
それが徳島城が竣工した際、藩主蜂須賀家政が城下に
『城の完成祝いとして、好きに踊れ』
という触れを出したことが発祥とされている。
それが、一貫して今日まで400年間、踊り継がれて来たということである。
 これだけの長い歴史であるので、「○○阿波踊り」として全国的に広まっているのも頷ける。
三味線、太鼓、鉦、横笛らの2拍子の伴奏は心浮き立つ。
今度は盆の季節に途中下車して、阿波踊りの渦に巻き込まれてみたいものである。