1
大阪からの京阪電車の終点駅は京都の出町柳駅である。
この駅を出るとそこは賀茂川と高野川の合流点。
その合流する内側の三角形の地は糺(ただす)の森と云い、
その森の中に通称下鴨神社、「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」がある。
この駅を出るとそこは賀茂川と高野川の合流点。
その合流する内側の三角形の地は糺(ただす)の森と云い、
その森の中に通称下鴨神社、「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」がある。
この下鴨神社の西に美味しいみたらし団子を食べさせてくれる店がある。
「KM茶屋」と云う。
「KM茶屋」と云う。
このみたらし団子、実は発祥は下鴨神社と云うことである。
下鴨神社の本殿に向かって右手に御手洗池(みたらしいけ)、その池から流れ出す川が御手洗川と呼ばれている。
このみたらし池、葵祭りのヒロインの斉王代が禊をすることで知られているが、みたらし団子の発祥の池と云うことでもある。
かつて後醍醐天皇が下鴨神社へお参りした際、この池でお清めをした。
その時、大きな泡が一つ浮いて、その後、小さな泡が四つ浮いてきたと云う。
「あぶくの大きなの1つ、 続いて2つ、2つか…。頭と手と足のようじゃ…。 水の中から、赤子が生まれて来るようじゃのう…」
「天子さま、その通りかと…。 いい兆しでございまする」
天皇はもう一度やってみた 同じようになった。
「このあぶくの形を、ご神前に供えてお参りしようぞ…、 用意せい!」
その時、大きな泡が一つ浮いて、その後、小さな泡が四つ浮いてきたと云う。
「あぶくの大きなの1つ、 続いて2つ、2つか…。頭と手と足のようじゃ…。 水の中から、赤子が生まれて来るようじゃのう…」
「天子さま、その通りかと…。 いい兆しでございまする」
天皇はもう一度やってみた 同じようになった。
「このあぶくの形を、ご神前に供えてお参りしようぞ…、 用意せい!」
側近は早速、神社の大炊殿(台所)へ走った。
「帝のご命令じゃ。あぶくを作ってお供えする…」
「あぶくって? なんのことでござるか?」
「丸いものよ。 大きめの1つと小さめの4つ」
「丸めるのか? 団子か?
生憎、木の実は無いぞよ 直ぐはできん」
「直ぐだ! 任せたぞ! 帝のご命令だ!」
まさに虎の威を借る狐、偉そうに云う。
「帝のご命令じゃ。あぶくを作ってお供えする…」
「あぶくって? なんのことでござるか?」
「丸いものよ。 大きめの1つと小さめの4つ」
「丸めるのか? 団子か?
生憎、木の実は無いぞよ 直ぐはできん」
「直ぐだ! 任せたぞ! 帝のご命令だ!」
まさに虎の威を借る狐、偉そうに云う。
当時、団子は木の実をすりつぶして丸めたものであった。
直ぐには、できる由もなかった。
直ぐには、できる由もなかった。
困り果てた大炊殿の神官たち 帝のデザインにタテ付く訳にはゆかない。
新米の神官が言った。
「粉があればできそうでござる。いっそう米を粉にしたらどうじゃろうか?」
元々は食べ難いものを粉にするのが常道であるが、米を粉にするなんて聞いたことがない。
新米の神官が言った。
「粉があればできそうでござる。いっそう米を粉にしたらどうじゃろうか?」
元々は食べ難いものを粉にするのが常道であるが、米を粉にするなんて聞いたことがない。
しかし無いものはしようがない。
「やってみるか。 臼を出せ~ィ!」
「やってみるか。 臼を出せ~ィ!」
それから、いっときは掛かったが団子はできた。
粉を水で溶いて丸めて、細い竹串を削って、4個続けてさして、少し空けて大きめ一個を刺し、蒸し上げたのであった。
確かにあぶくの形はしていた。
粉を水で溶いて丸めて、細い竹串を削って、4個続けてさして、少し空けて大きめ一個を刺し、蒸し上げたのであった。
確かにあぶくの形はしていた。
恐る恐る帝の御前に差し出した。
「なるほど、こういうもんじゃな。 御手洗池のあぶくは…。 団子じゃ、団子じゃ。 御手洗団子と名付けるぞ」
この瞬間に『みたらし団子』という名ができたのである。
この瞬間に『みたらし団子』という名ができたのである。
帝自らが神殿にお供えになったのであった。
頃は鎌倉末期から南北朝にかけての時代、ややこしい時代のことである。
神社のお供え物として、みたらし団子はスタートした。
神社のお供え物として、みたらし団子はスタートした。
みたらし団子という呼称、この時から何百年も続くとは、誰も考えていなかったに違いない。
2
室町時代になって、京都では神からの下がり物として、このみたらし団子を食するということになった。
本来味がないものである。
室町の御用達の菓子処、味を生醤油で付けて見た。
そう美味くはない。
室町の御用達の菓子処、味を生醤油で付けて見た。
そう美味くはない。
冷たい団子に生醤油では、もう一つであった。
この団子を焼いてみた。
そして、醤油を付けた かなり近づいた。
この団子を焼いてみた。
そして、醤油を付けた かなり近づいた。
醤油の付け焼きをしてみた。
少し滲みて香ばしい香りと味がした。
これで決まった。
仕上げに生醤油を付けて食べるて見ると、更に美味かった。
室町の食文化と云うことで、全国に広まって行ったのであった。
少し滲みて香ばしい香りと味がした。
これで決まった。
仕上げに生醤油を付けて食べるて見ると、更に美味かった。
室町の食文化と云うことで、全国に広まって行ったのであった。
江戸時代に寛永通宝という四文銭ができた時、それまで一串五個五文で売っていた団子が一串四個になったそうである。
また、この四個をベースに自動団子製造機が作られ、四個が多く出回ったという話もある。
また、この四個をベースに自動団子製造機が作られ、四個が多く出回ったという話もある。
今の甘いみたらし団子が登場するのはまだまだ後である。
登場は大正年間で、ごく最近のことである。
その大正時代に、このみたらし団子のタレに甘みを付けた店があった。
上述の「KM茶屋」のご主人であった。
程よい味付けにするのに大変苦労されたそうである。
上述の「KM茶屋」のご主人であった。
程よい味付けにするのに大変苦労されたそうである。
下鴨神社の通りを挟んだところにあるこのKM茶屋に行ってみた。
早速みたらし団子を注文して、待つこと数分。
早速みたらし団子を注文して、待つこと数分。
出てきた出てきた。
形は串に団子が1つあって、少し空けて4つの原型通りであった。
おまけに楊枝も添えられてある。
甘辛い濃くもないタレが掛けられてあって、トロ~とした甘さで大変美味しくまた食べやすいものであった。
おまけに楊枝も添えられてある。
甘辛い濃くもないタレが掛けられてあって、トロ~とした甘さで大変美味しくまた食べやすいものであった。
この加茂のみたらし団子、この店で売られて以来、この甘辛味で、またたく間に全国に広がったと云う。
しかし日本は広い。
生醤油だけのみたらし団子が好まれているところはある。
その代表は飛騨の高山である。
高山のみたらし団子は、今でも香ばしい生醤油だけのタレであり、焼きたての美味しい団子がいただける店は沢山ある。
生醤油だけのみたらし団子が好まれているところはある。
その代表は飛騨の高山である。
高山のみたらし団子は、今でも香ばしい生醤油だけのタレであり、焼きたての美味しい団子がいただける店は沢山ある。
もう一つの話、京都の隣の大阪のこと…。
みたらし団子のタレを中に包んだものがある。
みたらし小餅と呼んでいる店もある。
これなら普通のお菓子のように食べられ、衣服や手、口も汚さない。
合理的である。
みたらし団子のタレを中に包んだものがある。
みたらし小餅と呼んでいる店もある。
これなら普通のお菓子のように食べられ、衣服や手、口も汚さない。
合理的である。
いずれにしても、ところ変われば品変わるであろうか。
独り言…。
今の今まで、みたらしというのは、タレを団子にたらして食べるので、タレを垂らすという意味かと思っていたが、そうではなかった…。
今の今まで、みたらしというのは、タレを団子にたらして食べるので、タレを垂らすという意味かと思っていたが、そうではなかった…。