信長の石山本願寺をめぐる戦いが大規模になるに連れて、未だに懲りない将軍義昭は、中国毛利家の庇護下にあったが、将軍として打倒信長の御内書を各地の武将宛てに発信した。
それにより、本願寺、武田、毛利、宇喜多、上杉などの大勢力が第二次信長包囲網に名を連ねることになった。
1578年のことである。

この動きは、京都周辺の信長傘下の武将、丹波の波多野、丹後の山名、大和の松永達にも、少なからず動揺を与えたと云う。
畿内の武将たちは伝統的に強い方に付く。付いたり離れたりは、当たり前と思っていて、軍団を形成することなど、思っても見なかったのではある。

信長は気にせず、本願寺を攻め立てて行く。
伊勢長島、越前の本願寺勢力を殲滅した今、残ってるのはこの石山本願寺である。

ある日の軍議、
「石山のくそ坊主めが…、簡単にはいかんぞ…、誰ぞ考えを言うて見よ!」
「猿めの浅はかは考えは…」
いつも秀吉がトップにシャシャリ出る。
「坊主の後押しをしている毛利の根を断つことが肝要と存じまする。 瀬戸内の海路を絶つこと 武器弾薬、食料輸送の根を絶てば、おのずから勝利はお見方に…」
秀吉らしい兵糧作戦である。

「禿はどうじゃ?」
「今、風当たりがきつうございまする。 禁裏あたりでは、あれこれ噂していると聞きまする。ここは、しばらく時間をおいて…、帝のご尽力にて、勅命和睦が良かろうと存じまする」
「そんなに、時間は無いぞ…」
「そこでござる 丹羽殿には妙策ありと聞いておりまする」

「なんじゃ、長秀!」
「和睦中に、我が軍は石山包囲の砦を築くのでございまする。特に、南と西でございまする」

「勝家はどうじゃ?」
「殿! 北は宗徒の残党、朝倉浅井の残党が、あばれ回っておりますゆえ、 この抑えは抜かりなく・・」

「相分かった そのようにせい! 寝るぞ・・」
信長軍は、一度決めたら動きは速い。
その速さも、戦国一であったろう。

この軍議の後、暫らくして信長は、天王寺に砦を築き橋頭保としていた。
この砦を護るのは、原田直政と明智光秀。
本願寺軍は、これを潰そう、何度も攻め立てて来た。

そして信長軍は数日前の野外戦で完膚無きまでに叩きのめされた。直政は戦死、光秀はほうほうの体で、砦に逃げ込み、信長宛て援軍要請したのが経過である。

本願寺軍は今日こそ砦を落とすと云う決意で、1万5千で砦を包囲した。
楽に勝てる積りではあったが、何と信長が戦場に出ている。少し計算が狂った。

信長軍の方はと云えば、砦を守るのが7千、後詰の本隊が僅か3千である。
しかし信長出陣により、士気は上がっていた。砦の光秀隊は打って出た。
信長本隊と挟み撃ちにしようと云う考えである。信長も前線まで行って戦った。

本願寺には雑賀の鉄砲隊がいる。ここぞと云う時には、鉄砲を見舞われたが、信長隊も応戦する。信長本人も孫市から直接、足に見舞われたと云う。

しかし信長軍はこういう戦いは強い。やはり経験が違う歴戦のツワモノである。
本願寺軍は押されて、本願寺向いて退却を始めたのであった。信長は、追撃はするが、深追いはしない。
打ちのめされた本願寺軍、以降は野外で戦うことはしなかった。

大坂湾の木津川河口は様相が違った。
ここは本願寺軍が死守し、毛利水軍からの兵糧搬入の通路は確保したのであった。
本願寺は戦死者は出したものの、様子は何も変わっていない。

信長は困り果てていた。
「やはり猿の云うように、武器・食糧供給路の封鎖か?」
「九鬼に申し渡せ! 出番じゃとな」
熊野水軍である。紀伊半島東部を本拠とする。
太平洋をバックに戦う為、内海のチマチマした戦は、得意ではない。
戦う前から勝負は決まっていたようなものである。
毛利・本願寺方の村上水軍と大阪湾で戦ったが、九鬼の船は大方燃やされた。

更に困り果てた信長、
九鬼に「燃えない船を造れ!」と命じた。
本願寺とは、勅命和睦で休戦中とした。

船ができるまでじっとしている信長ではない
「雑賀に行くぞ!!」
と、和歌山攻めを下知した。

紀州の雑賀は、紀の川河口に本拠があり、現在の和歌山市、海南市を居城域としているが、基本は出向いて戦う派遣軍の性格である。

信長軍がこれを攻めた、和泉山脈孝子峠を越えて、大軍が和歌山になだれ込んだ。
これも勝負は決まっていた。
自領を護るという考えがない雑賀衆、領袖の鈴木孫市は信長に早々と誓紙を差し出した。
『以後の反抗はせず』という趣旨である。

不確かな、約束ではあるが、本願寺の力を少し削ぐには効果があった。

信長が雑賀に行ってる間に、毛利水軍の勝利を受けて、松永久秀がまた叛旗を翻したのであった。

少し遡る。
京都に信長が、将軍義昭を奉じて上洛した時、久秀や三好はその座を明け渡してくれた。 そんなことから、信長は久秀に多少の恩義は感じていた。
後日、盟友として家康にも自慢した。

「弾正殿はのう、三好の主君を亡き者にしたばかりか、将軍までも殺め、おまけに大仏までも焼いた 豪傑よの」
信長は、先を行く手本のような先輩として、一目置いていたのであった。

久秀のしたと云われることは、本当か嘘かは、分からない。
しかしこの言葉が、久秀をして、極悪非道の梟雄に仕立てたことは間違いない。

久秀や三好衆は、信長が上洛してきたら、すんなり受け入れ、その代わり、
京都周辺の支配権を我がものにして、信長の勢いに乗って、再興を図ろうと目論んでいたのである。

久秀は、大和北部の支配を強めるために、奈良北部の大仏殿の北西の高台に、多聞山城を作っていた。
天守を抱いた城である。
この城や、後で出てくる信貴山城の天守閣は、後の信長の安土城の見事な天主のさきがけとなったと云われている。

大和には、土着の豪族、筒井一族がいる。
奈良盆地の中央にある筒井城を根城に、大和を治めていたが、久秀が大和に入ってきてから、多くの小競り合いがあった。
信貴山と北大和に陣取る久秀、筒井の喉元に短剣を突きつけたような、格好である。

三好の仲たがいにより、三好の当主義継が、松永の所に、転り込んできた。
三好の一族の、もう一方の三好三人衆はこれに眼をつけた。
筒井と結託して、松永久秀と義継を攻めようと云うものである。

久秀の多聞山城攻撃に移るべく、東大寺に陣取った。
6ヶ月もの長い戦いになった、有名な大仏殿の戦いである。

三好衆同士の遺恨戦争みたいなもので、筒井は始めから真面目に戦う気はなかったのか、戦い半ばで、筒井城に逃げ帰ってしまったのである。

松永は終盤で、敵の本陣東大寺を奇襲して、見事に勝利を収めたのであったが、戦後も小競り合いは続いた。
機を見るに敏なる信長、援軍を差し向け、勝利を完璧なものにしてやった。

久秀はあくまでも信長に恭順した。
その結果、久秀を大和国国主に任じたのであった。

その後、義昭の御内書を見て、また叛旗を翻したが、直ぐ信長に発覚した。
久秀は再び許されはしたものの、今度は大和の支配権を取り上げられた。

その後、程なく筒井が信長にどう取り入ったのか、大和の守護になった。
久秀は筒井のような、策ばかり弄する男は大嫌いである。
今までも、一切の協力関係はなかった。

久秀は本願寺方が有利と判断し、またまた叛旗を翻した。
しかし、頼みにしていた上杉方は、動きが悪い。信長から離反したものの、久秀の立場は益々、苦しくなった。

「こうなった以上、これまで」、決断も早い。
ちまちました工作は好まない久秀、あっさりと居城の信貴山城へ篭り、備えを強化した。
信貴山は生駒連山の南端、大和川に程近く、大和・河内を一望できる要害である。
信長は久秀の説得に使者を遣わしたが、久秀は会いもしなかったと云う。

天正5年(本能寺変の5年前)、10月5日、織田信忠を大将とする織田軍、4万が久秀攻めの戦さを起した。
織田軍主力には光秀、秀吉、幽斎など、有力武将が数多くいた。

もちろん、先鋒は筒井順慶であることは、云うまでも無い。
悪賢い順慶は信貴山城内に、元部下の鉄砲隊を内応者として送り込んでいた。

松永の籠城兵は、それでも八千、先ず信貴山の麓から上まで、立てこもることが出来る施設を焼いた。
河内柏原からのの登山口にあった「瑠璃光寺」、七堂伽藍の大寺院であったが、このとき最初に炎上した。
大和川からの登山口である「朝護孫子寺」のあの毘沙門堂も炎上した。

信忠軍は、手始めに、王寺の片岡城を攻め落とした。
この片岡城、地の片岡氏から久秀が奪ったもので、大和川の対岸の守りを固めていたものであった。

余談ではあるが、
久秀の墓は、片岡一族の墓と並んで、片岡城の麓、達磨寺にあるのは、何とも不思議なものである。

信貴山城は難攻不落の城、山道も険しく、大軍が一時に押し寄せることは出来ない。  少数ずつで、攻め登るしか手は無い。
だから、守備軍は少数でも十分戦えた。
戦線は膠着して動かない日々が続いた。

消耗戦になるかと思われたころ、城内で火の手が上がった。
筒井の隠し玉である。
久秀は「不覚だった」とは一瞬思ったが、もう何ともならない。

城内は混乱した。  消火は難しい。
燃えるに任せるということは、負けるに任せるということであった。
これまでと見た、松永久秀・久通、親子、自爆自害した。
あっけない、そして久秀らしい最後であった。

そうこうしているうちに、信長が待ちに待った九鬼熊野水軍の鉄船が完成した。
7隻が進水した。紀伊水道から大坂湾木津川河口へと進めた。

本願寺村上水軍は、数百隻でこの水路の守りを堅めている。
「なんじゃ、ありゃ?」
と云いながらも、次々、火玉を撃ちこんで行く。
しかし、役には立たない。
逆にこちらに撃ち込まれた火玉は、燃え広がるばかりである。
村上の船は真っ赤に燃えあがった。
大坂の海と空を染めたのであった。

信長はほくそ笑んだ
「どうじゃ、作戦はうまく行ったろう。もうじき兵糧も無くなるはずじゃ。皆のもの、刈り獲り次第じゃ…」

一方、本願寺、
兵糧を絶たれては、雑賀も釘付けにされては、戦う意欲も出ない。
急速に和議に向かうことになった。
『石山の地を信長に明け渡すこと。 武装解除すること』
これが趣旨であった。

この時期、同時進行で摂津の国主、荒木村重が信長から謀反の疑いを受け、籠城した。 信長は自ら、村重の居城有岡城を攻め、滅ぼしたが、この話は別の機会に譲る。

和議を受け入れた本願寺法主顕如は紀州へ隠遁した。
隠居するに当たり、法主を息子の教如に譲った。

しかし、この教如、和議には納得せず、唱戦派とともに石山に立て籠った。
困った顕如、同じ嫡子の准如を法主に変えて、教如も強引に隠遁させたと云う。
教如が、本願寺を出て行く時に、本願寺は燃え上がったのであった。

蛇足ではあるが、この石山本願寺の地、信長に渡った後、秀吉が大坂城を建てたことは、良くご存じのところである。
尚、この後、本願寺は秀吉の時代に西本願寺として再建された。
また、家康の手により、教如を法主に東本願寺が建立された。
この時から、その勢力が分割されたのである。

これにて毛利も無言。
信長の畿内での憂いは無くなったのであった。

〔完〕