愚直、律儀は家康のためにある言葉であろう。

徳川家康は物心付く6才の幼少期から20才の青年期になるまで、今川家に人質として囚われの身で過ごした。
今川家臣と同じように、学問や武芸の稽古は与えられるものの、自由は与えられず、一方的に言われるだけの日々を過ごしたことが、彼の人間性を作り上げたのであった。

家康に付き添う家来たちも、そんな若の姿を見て、ことあるごとに支えてきた。
そのことが、家康を中心とする強い徳川武士団を作り上げたのでもあった。

今川方として戦った桶狭間では、やむを得ず信長と敵対したが、その戦で義元が亡くなった直後に念願の岡崎に帰ることができ、徳川の総帥・城主となった。
そして信長と織田・徳川同盟を結んだのであった。
信長とのこの同盟を、不満なことはあったと思うが、金科玉条のごとくに守り、一度も裏切ったことはなかったと云われている。
あくまでも律儀であったのである。

この物語は、信長の本能寺事件の直後から始まる。