京都御所の東隣の梨木神社のその東隣に廬山寺はある。
ちょっと前は、立命館大学の本部学舎の北隣、
今は京都府立医科大学の建物の北隣にある。

廬山寺とは、平安時代は紫式部の家系の、すなわち藤原家の代々の
居宅であった。

廬山寺は、もともとここにはなく、あれこれ経緯があって、秀吉の京都改造策によって、この寺町通りに引っ越して来たのであった。

紫式部の曽祖父は中納言藤原兼輔という。御存じ堤中納言と呼ばれた。
その謂われは、この屋敷の東は鴨川の堤だったということである。

紫式部は幼少の頃より、当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読み
こなしたという。才女としての逸話が多く残っている。
紫式部はかなり年上の藤原宣孝と結婚した。

しかし夫が急逝したため、宮廷に召し出されて一条天皇の中宮彰子に
女御兼家庭教師役として仕え、この鴨川沿いのこの屋敷でかの有名な
源氏物語を書いたのであった。
その中宮彰子は権勢を誇った藤原道長の娘で、朱雀天皇の生母である。

余談であるが、紫式部と並び称される清少納言はこの彰子の先の中宮で
ある定子の女御であった。
定子は道長のふるう権勢の為に夭折してしまい、納言の後半の人生は不遇であったと云われる。

平安京の碁盤の目の東の端は、今の御所の東の土塀あたりであった。
この邸宅はその東であるから都の外ではあるが、鴨川を見下ろし、東山や
比叡山を見上げる、風光明媚なところであった。

四季に応じ様々に変化する自然を眺め、それに宮廷生活の幾多の経験を加え、人の生きざまをあれやこれやと思い浮かべられる、創作には最適な環境だったと思われる。

今のように鴨川が整備されたのは、平安よりずっと後のこと。
豊臣秀吉を始め多くの人達が関与して、今のような街になったのである。
河原町通りも出来たし、デートのための河川敷もできたのであった。

その紫式部、行き詰ると場所替えして、瀬田川河畔の石山寺に籠ったという。
また夏になれば、京都は盆地なるがゆえに、ムシムシと暑い。
避暑には、涼風そよぐ石山は欠かせなかったとも思われる。

思いめぐらし、工夫を加えながら、あの長大な源氏物語を書き続け、
完成させたのは敬服に値する。

紫式部の居宅は天台宗の廬山寺になっているけれど、その寺にはその偉業を讃え、枯山水の庭に紫(桔梗)を咲かせてくれている。

後は、余談である。
日本最初の公立女学校〔現、京都府立鴨沂(おおき)高校〕が、この屋敷の
少し南にある。
正門は古式豊かな構えである。
それは、日本一の才媛を讃えてであろうか?

「夏桔梗 白砂きらめく 邸の址」
〔完〕