歴史は戦いや宮廷・武家文化の話がわかりやすいので、どうしても話しはそこへいってしまうのが常である。

この話は目先を変えて、戦いは戦いでも、自然との戦いの話しに絞る。

時代は徳川幕府が江戸に開府して早や数十年経った頃、ここ、紀伊藩も藩主五代目になり、台所は大変なことになっていた。
藩の財政は日に日に窮乏を極め、幕府からの借入金も10万両にもなっていた。

時の藩主は、後に8代将軍になる徳川吉宗。
「このままでは、じり貧・・  何か良い手は無いものか?」
朝な夕なに家老や勘定方とのお決まりのやり取りをしていた。

吉宗は藩内の事業仕分けには、いち早く手を付け、経費節減、藩士の一部解雇などを既に行っていた。
また、絹を着ないなどの質素・倹約令も出し、藩士だけではなく、領民へも考えられるお触れは出し尽くしていた。

更に言う、
「紀州は山の国、木の国、雨も良く降る。
川はあっても直ぐに氾濫。 米が出来るような土地も少ない。
55万石と言ってはいるが、本当のところは30万位しかない。
それでも上納金はきっちり払わされる。
赤字になるのは当たり前だ。
江戸のやつらは分かってない!」
と、ぼやき出すのである。

しかし、今日はいつもと違う。
待ってましたとばかりの勘定奉行大嶋伴六が喋り出した。
「聞くところによりますと、我が藩内に水を治める立派な工人達がいるということでございまする。・・・・・ 」
と、語り始めたのであった。

この話、長くなるので、結論を先にお知らせする。

紀州高野山の登山口、橋本の在の大畑才蔵56才という土木測量技術者の集団と、高野山の西、海南の野上の在で、根来衆の係累の井澤弥惣兵衛35才の野上組と云われる土木技術者集団との、この2つの集団が織り成す紀州の土木技術の話である。

後に将軍になった吉宗の、享保の改革の大課題である新田開発にて、井澤を先頭に全国を駆け回り、洪水や土砂、沼地と勇猛果敢な戦いをし、河川の治水を司り、改革を成功に導いたという話である。

少し余談をさせて頂く。

全国の都道府県で、いろんな果物の生産上位が取り沙汰される。
上位県はそれぞれ、米作に適する土地が少ないと云うことと関係がある。

この紀州も、みかんや桃・スモモ、柿や梅、とにかく、米以外の農作物で生計を立てて来た。米作が少ないと云う証しである。

和歌山城下、紀ノ川平野から外れた南部地域にちょっとした平野がある。
亀の川と云う川が流れている。
まとまった雨が降るとこの川、直ぐに氾濫する。

河口付近には、西国三十三ヶ所札所である紀三井寺、高校野球甲子園常連校の智弁和歌山の校舎がある。

河口から、ほんの少し川を遡行すれば周りは山。
それに川は蛇行するに任せられている。
亀の川というのっそりとした名前からは、想像できない暴れ川である。

大畑才蔵始め土木技術者達はこの川の氾濫防止と平野部に新田開発の一挙両得を目論んでいた。

そのために、氾濫防止と灌漑用に池を上流に作る。
そして、川を直線的に改修する。この2つである。

詳細な話は避けるが、溜池を山からの出口に3ヶ月で作った。
農閑期の冬場を利用した。
費用は、藩が半分、農家の勤労奉仕で半分相当。
長く役立つようにと万年の亀の名前を使い、城下の東南方向にあるので、
巽の亀池と名づけられた。

川は平野部に入ったところから、真っ直ぐに改修する設計であった。
川の改修はそう簡単には行かない。 水が流れているからである。

川の改修は雨の少ない時期を選ばないとそれは大変なことになる。

台風が紀伊半島の東を通り出した9月から始めた。
工事は順調で、翌年の春には、あら方出来ていた。
後は梅雨に入る前に、旧河川と接続すればいいような状態になっていた。

工事の期間中には、雲行きや風は何時も天気方が見ている。
雨量も計っている。
いよいよ明日は大詰めだな・・と現場事務所は安心していた。
「そろそろ、寝るか」
と云っても半時ごとに現場は交代で見回っている。

夜半、結構降りだした。
しかし、まだまだ堤防の高さには余裕があった。

次の半時、雨が小止みになった。

「大丈夫だ、大丈夫だ」と、言った、その瞬間、『ドーン』と音がした。

音と共に皆は走り出した。
「場所、松尾寺の西、決壊、水深三尺」
報告が来た。

荷車の土嚢が、そこを目掛けて急行した。

現場では、もう5尺になっていた。
積んで積んで、どんどん積んだ。
決壊は止まった。

川の湾曲部は弱いと見て、その外側を補強石積み途中であったので、直ぐ工事に入れたのであった。

ホッとして、一同、川の中を流れる濁流を見ていた。

間もなく工事は全て終わった。

もう雨が降っても、氾濫はなくなった。
水は直線的に、スッと海に抜けるからである。
低湿地に水が勝手に流れ込むこともなくなった。 ここも水田にした。
水路をこまめに造り、新しい水田も含め、面積は3倍ぐらいに増えた。
7千石の田んぼが完成したのであった。

実は吉宗、この話最初から関わっていた。
側近にしか知らせてなかった

藩主の鷹狩の場は、丁度、海南市の野上の黒澤山、現在の野上新という所から、登っていく山であった。
狩場の案内役は、従来から井澤家の者達がしていた。

そして吉宗は、井澤をリーダーとする技術集団は水扱いが上手で、野上を流れる貴志川を上手い具合に操っていることも聞いていた。

そして、この者達は根来衆の残党で、家康の時に既に幕府に雇い入れる約束をしていたが、待機させられていると云うことも吉宗は知っていた。

吉宗はこれらの者を藩士にして、新田開発を目論んではいたが、いきなり連れてくると、わからずやの大人達の反対にあうのは分かっている。

実績を作らそう、という考えであった。

鷹狩に行ったある日、陣屋にこの地区の有力者や井澤を呼んで、亀池・亀ノ川のことを約束していたのであった。
それが吉宗の目論見とおりに行っただけの話である。
さて、話を和歌山城内の藩主つぶやきの場面に戻す。

一通り話を聞き終わった吉宗、
「そういう輩が、我が藩におるのか・・。 一度、じかに話を聞いてみたいもんじゃ・・・。 近々に連れて参れ」
この家康譲りのとぼけぶり、さすがである。
藩の大人たちを、もうその気にさせている。

数日経って、城内の謁見の間、
勘定奉行大嶋の後ろに、平伏した井澤弥惣兵衛の姿があった。

大嶋、
「この者は、新たに勘定方に・・・。」
と言い出した時、
まどろっこしい話の嫌いな藩主吉宗、
「井澤か? 話は聞いたぞ。  田んぼを生み出すそうじゃな? もっと、近う寄って、面を上げい  頼みがある・・! この前とは違って、もっと大きな話じゃ・・。 大川の話じゃ!」

井澤弥惣兵衛は「それ来た・・」と思った。
郷を出立するときに、大畑才蔵と連絡を取り、緻密な計算をして来ていた。
もう紀ノ川改修の概略設計は出来ていた。

その結果、一万石の水田は増やせると決めていた。

藩主から、目標値が言い渡されるハズだ。
それによっては・・・が、心配だった。

藩主は言う、
「大川の右岸で5千、左岸の湿地で2千、合わせて7千で、やってくれんかのう?」
井澤は、
「なあんだ・・。 と、ほっとした」

気持ちが楽になって、要らないことを言ってしまった。
「じゃあ、その2倍を狙いましょうぞ・・。
最悪でも一万石・・・。
これはお約束申し上げまする。」

「そうか、頼もしいのう・・。
じゃが、金は7千の分しか出せ無いぞ!」

この勝負、どちらが勝ったのであろうか?

あくる日、高野山下の、紀ノ川の川縁の朝もやの中、2つの影があった。

云うまでも無く才蔵と弥惣兵衛である。

才蔵は彼の開発した自慢の「水盛台」で、川を土手を測っていた。
水盛台とは今のトランシット、道路の工事でよく見かける、三脚付の望遠鏡みたいなものである。
これを使って正確に距離や高さが測れるのである。

弥惣兵衛は図面を片手に、何やら書き留めていた。

紀ノ川は、ご存知もあると思うが、紀伊半島の多雨地帯、大峰山・大台ヶ原の雨を集めて和歌山平野に流れ込んで来る凶暴な氾濫川である。
上流の奈良県側では吉野川という。
土砂を伴う濁流川なため、岸には土砂を積み上げて小高い段丘を作っている。

水の勢いが弱くなる下流河口付近に、始めて土砂で埋もれた平野らしきものを残すと云うことを、古代から繰り返してきていた。

改修は右岸のかなり広い段丘の真中に、分流した水路を建設すること。
紀ノ川本流の何ヶ所かに水量コントロールと取水する堰を設けること。
下流においては水量に耐えるられる堤防を建設すること。
この3つである。

設計図も出来た。 金も人も目処がついた。

しかし工事は難儀を極めた。
何せ川よりもはるかに高いところの台地に水を流す工事である。
サイフォン、樋などあらゆる技術を駆使した。

弥惣兵衛と才蔵は我慢強く工事を指揮した。
10年の歳月がかかったが、工事は完成した。

紀ノ川を分流したので、増水しても水位は護られ、氾濫もなくなった。
素晴らしいものが出来上がったのである。
藩主との約束通り、約1万石の水田が見事に出来たのである。
耕して、米が収穫できるまでには、まだ年数が掛かるが、広大な水田が、現出したのであった。

程なく吉宗は将軍となり、江戸に行ってしまった。

紀伊藩勘定奉行井澤弥惣兵衛は、気が抜けたような日々を過ごすことを余儀なくされた。
既に、年齢は60に手が届くようになっていた。
郷へ帰り隠居かと思って、側近にも話していたころ・・・、弥惣兵衛に江戸表への呼び出し状が到着した。
それには但し書きがあって、
『急ぐ必要なし。 道々、河川の様子などをツブサに見てくることを優先すべし。』
と、書かれていた。

江戸城、将軍拝謁の間、

「弥惣兵衛、もっと、近う寄れ! そんなところにいては話も出来んヮ。 弥惣兵衛よく来てくれた。 余は嬉しいぞ。 才蔵も一緒にと思っていたが、不帰の人になってしもうた。 呼べなくなってしまったのは、口惜しい!」

「弥惣兵衛、いよいよな、国中で新田開発をすることにしたんじゃ。 貴公にその目付けを頼もうと思ってな・・・。」

弥惣兵衛御歳60、この後紀州流の河川工法を携えて全国行脚することになる。

茨城の飯沼新田、埼玉の見沼代用水、その他、全国の主だった河川、
利根川、荒川、酒匂川、相模川、富士川、安倍川、大井川、天竜川、富士川、
千曲川、信濃川、阿賀野川、木曽川、長良川、郡上川、・・・

数え出したら切りが無い。

吉宗の享保の改革は、この新田開発の他にも、ご存知のように多々取り組まれた。

しかしこの新田開発こそが江戸幕府をそれからも長く支える、礎となったのは疑いがない。

「紀の国の 民の苦楽を 胸に秘め 楽を求むる 動の賢政」

〔紀伊藩主徳川吉宗 完〕