鎌倉時代の武家は、後の信長・秀吉の戦国時代のように特定の軍団や同盟を形成していたわけではなく、戦いがあれば勝ちそうな方に付くのが常道で、勝利した暁には、リーダーから恩賞を貰うと云う生き方であった。

鎌倉時代の後半、武家の棟梁源氏の力がなくなって、その後に実権を握ったのは、北条氏であった
北条氏は、藤原氏や親王を征夷大将軍に立て、天皇をないがしろにし、欲しいままの、その身勝手な振るまいに不満を持ったのは、武家だけでは
なく、天皇・朝廷・公家達も同じであったが、まだまだ幕府軍の力は強く、表面だって動くものはいなかった。

元寇と云われる中国大陸からの2度の元軍の侵攻をかろうじて防いだものの、時の総帥、北条時宗の死去により、北条氏も弱体化を余儀なくされていた。

更に、天皇家にも皇位継承問題が起こり、大覚寺統、持明院統の間で交互に皇位に就くと云うことでの和議がなされていた。

そんな、ややこしい中で大覚寺統の後醍醐天皇が即位したのは翌1318年のことであったが、世情は混迷を深めたままであった。

後醍醐天皇は武芸両道に優れた人物だったと云う。
自ら倒幕の計画を立てた。
一度目は直ぐ露見したと云う。
それに懲りず、2度目の倒幕計画を立てた。
再び露見した。
今度はバレタだけでは済まず、連座する公家達が処分されたと云う。
天皇自らは、大和の国との境の笠置山と云うところに逃亡し、次の機会を狙うことにした。

後醍醐天皇は、地方の豪族達に、兵を興し倒幕に立ちあがるよう呼びかけた。
おいそれと従うものは無かったが、近江坂本で幕府軍が敗戦したというニュースが伝わると、少しづつではあるが、天皇に見方するものも現われた。

河内の豪族、楠木正成(まさしげ)も挙兵したが、兵はまだ弱小、他の各地にも、挙兵した豪族もいた。

後醍醐天皇が笠置山に逃げたので、幕府はこの天皇を廃し、新たに持明院統の光厳天皇を即位させた。北朝の始まりである。

ある日、後醍醐天皇は、正成を笠置山に呼び寄せた。
「幕府を討伐する件につき、正成を頼りにしたく思い、勅使を送ったが、
すぐに馳せ参じてきてくれた事、うれしく思うぞ。」
「幕府からの政権奪回、いかなる戦略をめぐらして短期間に成就し、天下に平穏をもたらすか、思うところ残らず述べてみよ。」

正成は答えて、
「幕府のこのところの振舞、近々天罰が下ること必定でござるが、それを待たずに、今こそ目にものを見せる時と存ずる。しかし、天下平定には武力と策略の両方が必要かと思いまするが、
武力は敵の方が、遥かに上、正面から幕府軍に挑んでもかないませぬ。策略が最も大切でござる。」

「その通りであるな・・。」

「陛下、合戦には勝ち負けはつきもの いちいちの勝敗を気になさらず、正成がまだ生きていると云う報をお受けになったなら、陛下のご運もそのうちに開けると云うことでございまする。心を強くお持ち下され。」

正成はこのように言い放った後、河内赤坂に帰っていったと云う。

その後、幕府軍は笠置山を攻め、一か月で陥落させたと云う。
後醍醐天皇は捉えられ、都にて謹慎の後、翌年に隠岐の島へ流罪の刑とされた。
楠木正成も赤坂に立て篭もったが、襲われ陥落し落ち延びた。
幕府は後醍醐天皇を廃し光厳天皇を擁立した。北朝第1代の天皇と云われる。

翌年に、今度は急造の山城である千早城に立てこもり抵抗した。
正成軍はわずか千人の兵、幕府軍は何と20万と云われる。
しかし正成は奇策を用い、20日間も持ちこたえ、兵糧が無くなった時点で、鎧兜を捨て、百姓の格好に扮し、敵の中を上手く逃げたと云う。

その奇策とは、敵が取り付いた塀を倒し、石や丸太を崖から落としたり、はたまた、攻めよせた兵に熱湯を掛けたり、油を掛け火を放ったりしたと云う。

この戦いが、我が国における城攻めの最初と云われる。
また、正成の勇敢な戦いに呼応して、付近の豪族も正成に味方するもの増えてきたと云われる。

先を急ごう。

次の年、1333年、後醍醐先帝は隠岐の島を脱出、伯耆の豪族、名和長年が先帝を擁して船上山で戦い、勝利した。

このころから、風向きが大きく変わって来たのも事実である。
幕府の有力御家人足利高氏や新田義貞が離反し、幕府相手に戦い、義貞の働きで、鎌倉幕府は滅亡した。

後醍醐先帝は、京都御所に復帰し、光厳天皇を廃し、再び天皇となり、よくご存じの建武の親政を始めたのであった。
楠木一族は、その親政にて、重用されたことは云うまでもない。

親政は、全て天皇が決裁すると云う形で行われた。
「綸旨」と云う詔でである。
しかし、いくらスーパーマンの後醍醐天皇でも、一人で決裁できる訳はない。
たちまち領国を支配している有力武将御家人たちから、不満が出た。
不満の先頭に立ち、反旗を翻したのは、足利尊氏である。

東下し、鎌倉を治めていた尊氏ではあったが、後醍醐天皇の帰京命令に従わず、天皇は尊氏親子の官位を剥奪した。
それをきっかけに、尊氏は京に攻め上って来たのであったが、新田義貞軍
や正成軍に殲滅され、尊氏は西に向け壊走したのであった。

実は、これは見せかけの壊走であった。
鎌倉を中心とする関東の御家人たちは、既に尊氏の勢力下にあった。
尊氏の壊走は、特に九州を中心とした勢力獲得のための西下であり、今で云う政治家の地方遊説みたいなものであった。
その証拠に、京から落ちる時、廃されていた光厳先帝と密約ができていた。
「京に戻り先帝を上皇とし、更に次期天皇として光明天皇を擁立する」と・・。
そして、後の上京の時にはその約束を果たし、尊氏軍には光厳先帝がいた。
尊氏は、官軍として兵をまとめるために、先帝を利用したのであった。

3ヶ月後、尊氏は九州から上京の途についた。
20万の大軍を連れてである。
海路瀬戸内海を通り、神戸から上陸しようとしていた。
別動隊は、陸路を進んでいた。

都では、後醍醐天皇を囲んで、朝議が開かれていた。
「尊氏が京に攻めて来ると云うが、こ度も殲滅してやろうぞよ。」
と天皇イエスマンの参議・坊門清忠(ぼうもんきよただ)は、
「その通りでござる。怖気づくことはござらん。」
正成、
「情報では、前の尊氏とは違っているとか・・。
ここは一旦、叡山へ避難して、尊氏を京に導き、囲んでから潰すのが策略と思われるが、如何に・・・?」
「尊氏の弱さは、みつき前と変わらんであろうが・・。」
と天皇。
「その通り、何も変わりござらん。お味方の勝利間違いなしじゃ。」
とイエスマン。
帝の決裁は、
「正成そして義貞、摂津にて尊氏の上京阻止せよ。」であった。

正成は自軍700騎のみで、摂津に向かった。
途中、摂津の国にかかったところ、通称桜井駅、摂津国嶋上郡大原駅にて、まだ11歳の息子、正行(まさつら)を河内の国に帰すことにした。
「父が死んだ後は、そちが楠木一族をまとめて、天皇のために戦うことが忠孝の道である。と、涙ながらに諭したと云う。
幼い正行は、父の遺訓を胸に刻み河内の国へ帰って行ったのであった。

余談であるが、明治の時代になって、この別れを詠んだ歌が作られた。
15番まであると云う

『1.青葉しげれる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと
偲ぶ鎧の袖の上に  散るは涙か はた露か

2.正成涙を打ち払い  我子、正行呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん  彼方の浦にて討死にせん
今しはここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ

・・・・・・・・・・

4.今しをここより帰さんは わが私の為ならず
己れ討死為さんには   世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君に   仕えまつれよ国の為め

・・・・                 』

筆者の子供の頃、女の子達がこの歌を歌いながら、お手玉遊びをしていたのを思い出すが、読者諸氏もご存じであろうか?
この桜井の駅跡、現在のJR東海道線島本駅に隣接している。

さて、尊氏軍を殲滅に出かけた正成、700騎余りで神戸の会山下に布陣、新田軍は約1万、和田岬辺りに布陣した。

戦いの当日、5月25日。足利軍の兵船が沖に現われた。
もちろん、陸からの部隊も迫っていた。
この時の足利軍は、20万とも云われる。
兵力で勝る足利軍は3方向から一斉に攻撃を開始した。
足利軍先鋒の細川直俊軍は、新田軍と楠木軍を分断するようにして上陸し、激しい攻撃を加えた。

正成軍は少数ながらも果敢に戦ったが、700では何ともならない多勢に無勢、敗北は目に見えていたが、それも覚悟の上であった。

ついに、その時が来た。
正成と弟の正季(まさすえ)は兄弟刺し違えて自害して果てた。
正成は死の直前、正季に何か願いはあるかと問いかけたところ、
「七生まで人間に生まれて朝敵を滅ぼしたい。」と答えた。
正成も、
「いつかこの本懐を達せん。」
と誓ったと云われる。

このように敗戦を覚悟しながら、天皇のために従容として戦場へ赴く姿は後世の人々の心をとらえた。
江戸時代に大日本史の編纂を開始した徳川光圀水戸黄門は、正成を『嗚呼、忠臣楠子』と褒め称え、忠臣の鑑としたのであった。

現在の価値観から見れば、かなり違うと思われるが、それは人の心の問題、河内の取るに足らない小豪族を重用してくれた後醍醐天皇へ、その恩義を一族で返して行くことに決めての振る舞いであった。

武士道が芽生え、忠義と云うことが、美とされるようになったのは、このころからであったと思われる。
戦争が、組織戦へと移って行くのである。

尚、正成・正季の自刃した地は、神戸の湊川神社の境内の森にあり、聖地として立ち入ることができない。
黄門さまも神社境内にて、正成を讃えている。

「摂津の津 国の未来に 戦うも また敵またも 雲霞(うんか)の如く」

この物語、次の章へ続く・・