『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
・・・・・・ 』

有名な平家物語の一節である。
学校の古文の授業と云えば、こんなのがあって、懐かしくもある。

この平家物語には、京都の宇治川を舞台にした先陣争いという良く知られているところがある。

その前に物語の背景について、若干の説明を加える。

時は鎌倉幕府が成立する10年程前(1180年)の頃である。
朝廷や公家をないがしろにする平家一族の討伐を指示した令旨が皇族、以仁王(もちひとおう)より発せられた。

源氏の嫡流、頼朝(後の鎌倉将軍)は関東で、従兄弟の木曽の義仲は長野で、その他源氏以外の武士団もそれぞれに挙兵した。
そして平家一族を都から追い出そうとした。

頼朝は慎重派、関東を固めて、大きな武士団にて、京へ上るという作戦であり、父祖の土地鎌倉を本拠と定め、時間をかけた。

義仲は猪突猛進型、木曽で挙兵するや、もう北陸道へ攻めていった。
頼朝が関東を固めている間に、義仲は京へ上って、平家一族や安徳天皇を追い払うことには成功した。

義仲はここまでは良かったんだが、促成の軍であり、都を維持するだけの蓄えも無く、京の市中で様々な悪行・狼藉を働き、庶民の不評を買った。

庶民どころか、天皇家・公家にも・・・・。
これを不満とする後白河法皇は頼朝と通じ合い、義仲追撃の詔を発したのであった。

頼朝軍が西上を始めた。
都に行き着くには、琵琶湖とそれを水源とする瀬田川=宇治川を渡らなければならない。

義仲軍はそうはさせじと、川に架かる2つの大橋、瀬田の唐橋と宇治の大橋の橋板を外して、それぞれ600騎、400騎で護ることになり、頼朝軍の到着を、今や遅しと待ったのである。

もう一つの背景、
琵琶湖を水源として、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変える宇治川、当時は現在のような優しい川では無かった。
今でこそ、瀬田川の南郷に洗堰が、支流に喜撰山ダムが、本流に大型の天瀬ダムが建設され、穏やかな流れとなった。
かつては、今の宇治川からは想像だにできない、暴れ川であった。

過去何度も氾濫した宇治川は、京都盆地の南に広大な氾濫湖を作った。
巨椋池と呼び、昭和の時代まで大きな湖であった。

当時、東国から京に向かって、橋が無い状態で大軍が移動しようと思えば、琵琶湖の北側か、西方の淀辺りまで行かなければならなかったのである。
尚、巨椋池はその後干拓されて広大な農地になっており、高速道路がその上を十文字に走っている。

前置きが長くなった。

明日は京に向け出発というその日、梶原景季(かげすえ)という配下の武将が頼朝(よりとも)の前に来て、
「殿、いよいよ明日はご出陣でござる  ご戦勝、願わしゅう・・・」
「貴殿らの働きが見事ならばな・・・  励んでくれよ」
「御意・・、 ところで殿、お願いがござる」
「何じゃ、言うて見い・・」
「願わくは、殿の大事になされているご名馬『生月(いけづき)』を賜り
とうござる」
「それは、ちと無理じゃな・・ ワシが乗る積りじゃ・・
その代わりと云っては何じゃが、『磨墨(するすみ)』をそちにやろう
生月に劣らぬ名馬じゃ」
「ありがたき幸せ・・  必ずや先陣を取って、ご覧にいれまする」
(注)生月は、生食と云うことで、肉食系のパワフルな馬
磨墨は毛並みが漆黒の馬で、いずれも名馬である。

翌日、頼朝軍は京に向かって順次出発していった。
名馬を貰って意気揚揚と先頭にて出発した景季隊、路端で休息していた。

後から馬で近づいてきたのは佐々木高綱、目を見張るような馬に乗っているでは
ないか・・・、
「おっつ、あれは・・」驚いた景季「高綱どの~ッ、高綱どの~ッ」
「その馬は、生月ではないか? 殿から頂いたのか?」
「何と梶原殿、お早いお立ちでござったの~ゥ、いや、この馬は、今朝に盗んできたのでござるよ。梶原殿がもらえない馬を、拙者がもらえるはずもなかろう? と思ってな」
「そうでござったか  それにしてもいい馬じゃ」

実は高綱、昨日、景季の後に頼朝のところに生月を所望に云ったのであった。
何を思ったか頼朝、「お主に預ける 働けよ・・」と気前良くくれたのであった。
「生月を頂戴しました上は、命に換えましても、先陣つかまつるべく候」
ということが、あったばかりである。

宇治から義仲に戦いを挑む義経軍、瀬田から攻める範頼軍と別れ、景季隊、高綱隊を先頭に、宇治川の左岸を大きく迂回して、平等院の所、宇治橋の袂までやって来た。
宇治橋は橋桁だけは残っているが、使える代物ではない。

雪解け水である 水量の多い宇治川の中を渡るしか無いようであった。

佐々木高綱は先陣を切るべく、渡河する場所を探していた。
その時、川に今にも入ろうとしている騎馬を見た。
するすると近づいて見ると、梶原景季であった。
遅れてはならじと、高綱は駆け寄って、言った。

「おお~い、梶原どの~ッ、馬の腹帯がたるんでいるぞ~ッ、このままでは川の中にて、落馬必定~ッ 締め直すがよかろ~ゥ」と叫んだ。
景季は立ち止まって、腹帯を締め直しているその隙に、高綱は川に入り馬を進めていた。

「おお~い、佐々木どの~ッ、川底には、綱が張られているそうじ~ァ、
引っかからぬようにな~ァ」
高綱は刀で綱を切りながら進んだ。
流石に名馬生月、直角・直線で一気に対岸へ行ってしまった。

慌てた景季、気はせいたが、真っ直ぐは進まない。
下流へ下流へと、かなりな時間がかかってしまった。

「宇多天皇から9代目、佐々木三郎義秀が子孫、佐々木四郎高綱なるぞ、
宇治川の先陣じゃ、我と思わん者、イザ勝負じゃ!!」

引き続いて、畠山重忠が500騎で川に入った。
向こう岸から放たれた矢に馬の頭を射貫かれた。
どっと川にもんどりうって川に落ちたが、歩いて向こう岸までたどり着いた。

その時、重忠の背中にすがりついてくる者がいた。
「誰ぞ?」
「重親」
「なんと、大串か?」
「その通り」
烏帽子子の大串重親(しげちか)であった
「あまりに水が速く、馬が流されてしもうたのでござる」
重忠、大串をつかんで、川岸へ押し上げてやった。

と、その時、
「武蔵の国の住人、大串次郎重親、宇治川の徒歩の先陣であるぞ!」
と叫んだものだから、味方も敵も一度にどっと笑ったのであった。

この後、義経軍は次々上陸した。
その数、一万騎以上の大軍であった。
義仲軍は僅か400騎、ひとたまりもなく、本隊のいる大津へ壊走した。

もちろん瀬田川も突破されていた。
義仲は数万の頼朝軍に囲まれ、敢え無く殲滅されたのである。
その戦場は大津の粟津、義仲の菩提を伴う義仲寺がある。

頼朝軍は都に入城したのであった。

〔宇治川の先陣 完〕