これは、妖怪鵺を基軸にした、細くも長い物語である。
時代は、平安末期の頃、二条天皇の時代、御所の清涼殿におわす二条天皇、日々、訳のわからぬ頭痛に悩まされていた。
夜の決まった時刻になると清涼殿の軒先にドーンと重苦しくも黒い煙が立ち込め、獣とも何とも分からぬ鳴き声が響いて、前後不覚の激しい頭痛に襲われるのである。
暫くして黒い影がなくなると頭痛は少しは楽にはなる。
妖怪に違いないとのことで、この妖怪を「鵺(ぬえ)」と名づけた。
高僧に祈祷させるもいっこうに回復せず、日に日に病気は重くなり、
寝込んでしまっていたのであった。
近習達も
「帝は物の怪に取り憑かれているに違いない。 誰そ退治できんものか・・?」
と詮議するばかりで埒が開かなかった。
祟りを恐れて、逃げているばかりであった。
ある時、
「源頼光が子孫、頼政というもの、弓を良くすなりと聞く。かのものに退治させられまいか?」
との声があがり、
「そのような者がいるのなら・・」
と云うことになった。
「望みのものを取らすぞ」
という言葉に2つ返事で乗ってはみたものの、
「訳の分からないものを撃つというのはな」
と頼政、悩むことになった。
しかしそこは名手、頼光が子孫、2種類の矢を用意し、おまけに神明神社で祈祷までしてもらって、清涼殿までやってきたのであった。
いよいよ、その時刻になった。
わいわい喋っていた近習たちは誰もいなくなった。
ふすまや障子の隙間から目だけが見えている。
東の方からやって来た来た黒いガスのかたまり、
清涼殿の屋根とも軒先ともいえないところに取り付いた。
良く見ればガスの中に黒い影が見える。
「ようし、見ておれ」とばかりに頼政は弓を引いた。
ガスの中でドーンという鈍い音がした。
次ぎの矢、尖った鏃である。
放った瞬間、ギャアともギュウとも得体の知れない異様な鳴き声がして、物体は天空にジャンプして、南の方角にドスンと落ちた。
ここが大事と頼政、猛スピードで追っかけた。
剣にて、何度も突き刺し、仕止めたのであった。
その姿、良く見て見ると、頭は猿、胴体は狸、四肢は虎、尻尾は蛇のような形をした、えもいわれぬ気持ちの悪い姿の妖怪、鵺の姿であった。
暫く様子を眺めていた。
名のある近習たちも恐る恐る駆けつけて来た。
それでも絶命しているのを見て一斉に手を合わせた。
場所は朱雀門の少し東北、今の二条城の北側であった。
その後、清涼殿では晴れやかな二条天皇のお姿があったことは言うまでも無い。
この功により頼政は従三位という武家としては最高位に任じられ、知行地も頂き、獅子王という宝剣も帝から賜った。
その後ある時に、頼政は政変に巻き込まれ命を落とす羽目になったことは残念である。
余談であるが、国道9号線(山陰国道)の亀岡市内の繁華街の外れに「頼政塚」という交差点がある。
この付近が賜った矢田という知行地で、頼政の墓も丘の上にあるそうである。
後の明智光秀の亀山城の少し南側にあたる。
この話は、まだ続く。
鵺の最後の地に祠を建てて弔うことにした。
これが鵺大明神である。現在は二条城の北の公園の片隅にある。
そして鵺の亡骸はしきたり通り、「ゆかり舟」(カヌー状の小船)に乗せて、鴨川に流したのであった。
このゆかり舟、何日かして大阪の都島という所の芦原に流れ着いていた。
村人が集まり見てみると、京で先ごろ退治された鵺という妖怪の亡骸らしいことが分かった。
とりあえず、河原に亡骸を埋め、見栄えのいい石にて墓標を立てた。
暫くして、都島には原因不明の病人・死者が何人か出た。
鵺の祟りと恐れた村人は、当時建設中であった大寺院、母恩寺の境内の一隅に、鵺塚を建て、手厚く葬ったということである。
この鵺塚は今も都島の商店街の一角に存在する。
まだ、続く。
1980年、大阪港のシンボルマークを選定することになった。
水に関係する怪獣で、天狗や河童なども検討されたそうであるが、
大阪の人たちが手厚く葬ったということで、大阪に関係ある怪獣として、この鵺が採用されたということである。
鵺は今も立派に生きているのである。
更に、大阪港の余談、
日本の地図を作る国土地理院というところが測量のために三角点を全国に置いている。
大阪港の天保山には二等三角点があり、海抜4.5mと日本で一番低い山として知られている。
〔完〕