「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情こころあらなも 隠さふべしや」
〔額田王 万葉集巻1‐18〕

これは、西暦667年に都が飛鳥から近江の大津京に移ることになったが、その近江に向かう途中、額田王(ぬかだのおおきみ)が詠んだ歌である。

飛鳥を離れて、遠い近江の大津京まで行かなければならないのに、
雲はなぜ三輪山を隠してしまうのか、最後まで見ていたいのに、
情けあれば隠さないでほしい、この寂しい気持ちを分かってほしい。

なぜ、皇族方や豪族の大津への大移動(遷都)が必要だったのか?
少し歴史を遡って見る。

当時、大陸は唐の時代、朝鮮半島は高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、
百済(くだら)と三国が鼎立、わが倭国も含めて、残念ながら、大国の唐から見ると属国ような扱いであった。

わが国は遣唐使という形で、唐の宮殿まで使者を派遣して、皇帝太宗・高宗に拝謁するなどの融和策を取っていた。
見返りに、沢山のお土産を入手、文化交流のようなメリットもあったのではあるが・・・。

唐は、朝鮮半島での影響力を強くして、そして日本もものにしようと企んでいた。
朝鮮半島で、唐・新羅連合軍と高句麗・百済連合軍が戦っていたのであった。

蘇我氏を倒して、意気揚揚たる中大兄皇子ではあったが、親百済派、半島に援軍を出して戦っていた。
それでも百済が破れてしまったので、奈良飛鳥の都には居辛くなり、奥方の里に近い、近江の国、大津に遷都することになったのである。
大津の宮で中大兄皇子は天智天皇として即位した。

都建設や法制つくりの合間に、皇室ご一行は野遊びにも出かけた。

「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る」
〔額田王 万葉集巻1‐20〕
茜色の光に輝き、紫の花の咲く、天智天皇御領地の野で、あなたはそんなに袖を振ってらして、野守が見るかもしれませんよ。

あなたとは大海人皇子(おおあまのおうじのこと、壬申の乱の主役である。
大海人皇子は天智天皇の弟という人物であり、不思議なことに親新羅派である。
このときは額田王は天智天皇の妃であった。
三角関係であったのでは?と云われているが、それはそれである。

この時代、天皇の継承は兄弟間で行うことになっていて、次代天皇継承者であった。

朝鮮半島、高句麗も破れ、一旦戦争が終わったかに見えたが、今度は唐と新羅が戦うことになった。
勝った仲間同士で戦うことはよくある話である。

唐から天智天皇宛てに、援軍要請がきた、踏み絵みたいなものである。
天皇としては、百済を潰した唐に見方する気にはならないが、
「ダメだ」と発言するわけにもいかない。
「出来る限り時間稼ぎしてやろう」
と云うことになった。

天智天皇は、大津へ来て頑張り過ぎたのか、心労から病の床に伏せってしまった。
病気になると、心残りは後継ぎのこと・・・。
実は、後継ぎに息子の大友皇子の成長ぶりを見て、そう考えていたのだが、皇室のしきたり通り、現皇太子、弟の大海人皇子にしなければならない。

ある日、病の床に大海人皇子を呼んで、
「皇子を後継ぎにする考えである その積りでいてくれ」 と言った。
当の皇子は、これを聞いて思った。
《ワシを、殺すつもりだな! 危ない、逃げよう》
と思い、
「いや、私めには、もったいないお話 お断り申し上げる
次の天皇は、大友皇子に・・」
と云って、そばを離れて、あくる日、大海人皇子は家族を連れて、飛鳥へ戻ってしまった。
そして皇子自身は吉野山で僧籍となってしまったのであった。

もし、有難き幸せなんて言っていたら、今頃は家族ともども殺されている。
日常茶飯事そんなことが行われていた時代である。

それからしばらくして、天智天皇が亡くなってしまった。
病気とも、暗殺されたとも云われるが真相はわからないままである。
大友皇子が後を継いだ。
尚、天智天皇は時計を導入して、役所の業務時間の管理を始めた天皇として有名で、時計博物館が近江神宮境内にある。

暫くして、大友皇子は父天智天皇の墓所造営と云う名目で人集めをしたが、皆武装している。
大津から奈良に向け、軍が発せられた。

それを知った大海人皇子、奈良では軍がないので戦えない。
自らの領地である岐阜へ行って、軍を立てるべく、若干の供のものを連れて急いだのであった。

桜井から伊勢街道を名張まで辿る。
名張・上野辺りは平地であるのでいつ襲われるかもわからないが、無事通り抜け、峠を越えて三重の亀山・関まで来た。
ここまでくれば安心である。
味方の豪族が迎えてくれ、ガードしてくれた。

余談であるが、これは家康の伊賀越えルートの、もう一つ南側のルートである。
奈良から行くとなるとこの様になる。

追っ手にも会わず、無事岐阜まで辿り着いたのであった。

岐阜・愛知では豪族諸侯の手厚い歓迎を受けた。
が、ホッとする間もなく、早速軍の整備にかかったのである。

大海人皇子軍は岐阜から近江への出口である関ヶ原に集結した。
待ってましたとばかりに、戦いを挑んできた一隊がいた。
朝廷軍の山部王を中心とした一軍である。
数では話にならなかった 小競り合いは続いたが歯が立たず、朝廷軍は逃げた。
これが有史以来、関ヶ原で行われた最初の戦である。

大海人皇子は、軍を大きく二つに分けた。
一軍は、皇子が岐阜へ来た道を反対に辿って、奈良飛鳥へ向かう軍、もう一軍は、大津へ向かう軍である。
大津軍は琵琶湖の東岸を向かう隊を本隊に、西岸を進む隊をサブとして行軍した。

一方、大友皇子は飛鳥の奪還が主要な目標であって、飛鳥攻めに大軍を
発していた。
他方、大海人軍は飛鳥にて大伴吹負が軍を起こし、近江軍と戦ってはいたが、少数ゆえ芳しい戦果は上がらない、負けの連続であった。
関ヶ原発の本隊が来るまでなんとか凌いでいた。

飛鳥の戦いは、難波や山城までに広がっていた。
一進一退を繰り返しつつ、大海人皇子軍は本隊が到着して、ほぼ勝利を手中に収めた。

しかし飛鳥を制圧しただけでは、何もならない。
戦いの天王山は、大友皇子を亡きものにする大津決戦である。
それは、琵琶湖沿いに進む軍にゆだねられている。

琵琶湖軍は途中小競り合いをしながら、瀬田の橋まで来た。
この橋を渡って大津の宮まで攻め込みたいのであるが、大友皇子の防衛軍、橋板の真ん中辺りを外して待ち構えていた。
勢いよく渡って来た、敵兵を川の中に落とそうという作戦である。

しかしどの隊にも勇猛果敢なものはいる 大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)と云う小隊長がそれを見破り、隊とともに渡った。
瀬田川の先陣である。
そのあとに雪崩のように続き、大海人軍が川を渡った。

大津に向け、北から攻めてくる大海人軍も接近している。
大友軍を挟み撃ちにして、戦いは進んでいった。

いよいよ追い詰められた大友皇子軍、押され押されて皇子は現在の三井寺の背後の山、長等山(ながらやま)で自害した。
壬申の乱の戦は、大海人皇子の大勝利であった。

大海人皇子はもう大津には見向きもせず、そのまま飛鳥に向かった。
飛鳥にて、飛鳥浄御原(きよみがはら)宮を造営して都と定めた。
そして、天武天皇として即位したのであった。

この飛鳥浄御原宮は次の持統天皇の時代と合わせて、約20年間でその役割を終わり、藤原宮へと引き継がれるのであった。

その後は、建都1300年の平城宮へと繋がるのであった。
西暦700年前後の頃の話である。

そして、この後暫くの間は、平和な時代が続くのであった。

尚、天武天皇は、これまでの日本の歴史(と云っても支配者の歴史)を歴史書「日本書紀」として、編纂を始めた。
最終的に完成させたのは、息子、舎人親王であると云われる。

後日譚ではあるが、大友皇子に天皇の称号「弘文天皇」が贈られたのは、明治になってからのことである。
弘文天皇陵は、その三井寺の近くにある。

奈良に帰ってきた都、文化の花が開くのであった。

「うまさけ三輪の社の山照らす秋の黄葉(もみち)の散らまく惜しも」
〔長屋王 万葉集8-1517〕

神が降臨する三輪山を照らすように紅葉している木々、
その葉が散るのが惜しい。
天武天皇の孫、長屋王の歌である。

大津への長旅、如何だったろうか?

「さざなみの 志賀の都の 漏刻や 天地の時を  いまも刻みつ」  ~近江神宮にて~