天正10年(1592年)6月2日未明、京の神泉苑あたりに、一陣の黒い影達が走り抜けた。
物音ひとつ立てず、黙りこくったまま、得体の知れぬ黒集団は2手に分かれ通り抜けて行った。

寅の刻、午前4時、黒い影の集団が本能寺に忍びこんだ。
およそ3~40人はいる。
目的の信長の寝床は知ってるらしく、まっすぐに進んだ。

その時、信長は厠に立った戻りらしく、部屋の前で鉢合わせた。
無言で、剣を振り下ろした黒い影、信長は倒れた。
『ド~ン・・』という音に、隣の部屋から数名の近習が現われた。
信長にも刀が渡され、信長を守る形で、斬り合いとなったが、勝負はついた。
百戦錬磨の武装集団は強かった。

「是非に、及ばず・・・」とつぶやいたのが、信長最後の言葉となった。

信長に自害を促し、駆けつけた信長の手の者をあらかた殺戮したところで、その集団はサッと散って行った。

他の者も駆けつけては来たが、時すでに遅し、後を追うもの、うろたえるもの、収拾付かない状態であった。

少しの間があった。
息子信忠のいる二条陣屋へ走る者、阿弥陀寺へ走る者、そして光秀のいる亀山城へ向けて走る者・・・

その頃、同じように二条陣屋の信忠も襲われていた。
信忠は少しは立ち回ったが、やはり殺られた。
ここもあらかたの殺戮劇が終わったところで、黒い集団は、サッと引いた。

そのころ、一万三千の光秀軍は信長を迎えるべく、信長警護隊を先頭に、亀山を出発して、老ノ坂の峠の手前まで来ていた。

知らせを受けた阿弥陀寺清玉は、塔頭の屈強な僧20人ばかりを従え、本能寺に急いだ。
清玉が本能寺に着いたのは、ことが起こってから半時余り、5時半ごろであった。
仕方ないので、その場で信長の遺体を荼毘に付した。
念仏を唱えながら清玉は、かつてのことがよぎり、涙が止まらなかった。

遺骨を納め終わったところで、小者がその残り火を本能寺の建屋に移した。
信長公への派手な送り火である。
本能寺は暫らくして燃え上がったのであった。

光秀軍先発隊は京が見える老ノ坂峠で、本能寺からの使者と出会った。
軍をそこに留め、近習達100騎ばかりで本能寺に駆けた。
桂川を越えた辺りで、燃え上がる本能寺を見たのであった。
これも時すでに遅しであった。

信長の中国毛利との戦いに出陣する前日、逗留していた本能寺にて、茶会が催された。
茶会の後、信長は「敦盛」を披露したほど、ことのほか上機嫌であったそうである。

『人間五十年、下天のうちをくらぶれば 夢まぼろしの如くなり
ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか』

信長は明日の出立を控えて、側近を並べ、
「明日からは戦じゃ・・、
敵は毛利じゃ、
何が起こるか、分からんが・・・、
よもや儂の息の根が止められることがあったとしたら、
髪の毛一本までも、敵に渡すな!
しかと心得よ!」
と云い、床に就いたそうである。

舞台は、阿弥陀寺に移る。
清玉は、信長の遺骨を抱いて、阿弥陀寺に急ぎ帰った。
本堂に安置し、その後、二条陣屋へ走った。
二条陣屋には、死体のほか誰もいなかった。
信忠始め、亡骸を全て阿弥陀寺に運んだのであった。
後日譚であるが、襲われた時に、あら方のものは逃げた様で、戦ったのは、信忠ほか10数名だったという。
逃げた中には、織田有楽斎もいたという 冷たいものである。

阿弥陀寺本堂では、織田家一族の亡骸を前にして、読経していた。
塔頭からも全ての僧が出て、その読経は、蓮台野一帯から、御所まで届いたと云う。

あくる日から寺の墓地にて、遺体を荼毘にふし、懇ろに弔ったのであった。

清玉上人とは、
織田家がまだ尾張の国主であった頃、館の前の通りで、身ごもった女が苦しんでいるところを信長の父信秀が通り掛かり、館に連れて帰った。
織田家の家人達は、医者も呼び看病したが、治療の甲斐なく赤子を産んで、そのまま帰らぬ人となってしまったという。
不憫に思った織田信秀はその子を館に置いて育てることにした。
清州で生まれた玉のような男子と云うことで、清玉と名付けられた。

清玉は、信広・信長と兄弟であるかのように、育てられ大きくなって行った。
13歳になった時、
「清玉よ、武士になるか、僧になるか、望み次第じゃ」
と、問われた。
織田家の、度重なる戦いを子供心に目にしてきた清玉は、
「僧になりとうござる」
と即座に答え、奈良の興福寺にて仏門の修業をすることになった。

清玉坊が19歳になった時、近江の坂本の後継のいない寺をもらいうけ、阿弥陀寺を興して、その住職となったのである。
もちろん、織田家の後押しがあったことは云うまでもない。

この阿弥陀寺、後日の信長の入京に際し、京の芝薬師蓮台野に移築し、八町四方の寺領を賜り、信長の躍進と共に栄えて行くのであった。
塔頭が十三坊もあったという。 法名もそのままの清玉上人と名乗り、京の北部では押しも押されもしない大寺院となった。
信長は上洛の都度、阿弥陀寺に立ち寄り、四方山話に花を咲かせたという。
信長とは、そんな仲であった。

後日談ではあるが、清玉上人にはこんな話がある。

織田家一族の葬儀も済まして、平穏な仏門の世界が続いていた。
そこに、ある日、山崎に城を構える秀吉が尋ねて来た。
「信長公の葬儀をする故、遺骸を引き渡していただきたい」
偉そうにいう。
「葬儀は済ませた故、その必要はない
公の戦いは終わり、成仏して彼岸におわせる」
「寄進をはずむ故、是非に引き渡してもらいたい
貴僧には、迷惑は掛けん・・」
しつこい。
「拙僧は、信長公と幼少の頃から、ともに育ってきた者ござる。身内でござるよ・・。
身内が弔い、お守りするのは至極当たり前であろうが・・。
貴殿に、そのように言われる筋合いはない」
これ以上、言うと秀吉は怒るかも知れないと云うぎりぎりの線である。

『貴殿が、毛利にすんなり勝っていれば、こうはならなかった。
貴殿が格好付けて信長公を呼んだりしなければ・・・、
貴殿が、信長公を殺したようなもんだ』
と云いたかったが・・・

清玉は、織田家の墓を守ることが、織田家に世話になった少しでもの恩返しであると思った。

これで、秀吉は引き下がった。
そのあと、秀吉は大徳寺に総見院を建立し、信長の葬儀を行ったと云う。

程なく秀吉は信長の遺志に反して朝廷にも取り入り、天皇の家来、関白となった。

阿弥陀寺は寺領を狭められ、現在の寺町の場所に移動させられたのが、仕返しであろうか?

現在も阿弥陀寺で、革命を目指した孤高の人信長とその子信忠、そして寄り添うように森三兄弟が眠っている。
少し離れて、清玉上人も眠っている。

さて、急ぎ本能寺に駆け付けた光秀であるが、寺は燃え落ち、くすぶりの中を探索したが、信長の遺体はおろか、何もみつからなかった。

そのあと、二条の織田陣屋にも行ったが、誰もいない。
近くの阿弥陀寺に行った  読経の最中であった。
僧を捉まえて事情を聞いたが良くは分からない。
織田家の弔いをしていると云うことで、それに暫らく加わった。

光秀は、京都を始め畿内の守護役を信長から仰せつかっている。
軍の内、半数を出陣体制で亀山に帰し、半数を、京都に来させた。
内半数は、安土に行かせ、守りを固める予定であった。

軍が京に到着したころ、近くにいる近衛家の近衛前久に伴われ、参内した。

天皇から、都を護るようにと云う言葉を頂いた。
これより光秀軍は官軍として振舞うことになる。
軍三千を京都に残し、残り三千を従え安土に向かった。
信長亡きあとの混乱を鎮める目的である。

信長を襲って殺めたのは誰か?
謎ではある。
このころは、第三次信長包囲網と云うことで、信長に恨みを持つ者、横暴に手を焼く者、はたまた戦争中の者、多くいた。
得した者を疑えと云うが、真っ先に毛利、朝廷・禁裏、秀吉、家康・・・、
恨みは、武田遺臣、浅井・朝倉遺臣、伊賀者、叡山・・・
畿内にいる者は、大抵の者が、大小はあるが、恨みを持っている。
これらの者が暗殺集団を結成して襲ったのに違いないと思われるが、ここでは、犯人探しが主旨ではない。

一週間ほど経ってから、光秀に勅命が下った。
大阪から攻めてくる賊軍を討てとの詔である。
御所を護れと言われれば仕方がない。
光秀は面倒くさいと思いながらも、戦うことになり、長岡の勝竜寺城を本陣として軍を集結したのである。
俗に云う山崎合戦へと続くのであった。