京都の岡崎の平安神宮の直ぐ北の、小高い丘の上にある、金戒光明寺は通称「黒谷さん」と呼ばれる。

この黒谷さん、浄土宗の寺院では、知恩院と共に総本山として、その地位を揺るぎないものにはしたが、江戸時代になって双方とも城郭構造に改められたそうである。

話は幕末のころである。

海外の先進国たちが思想・技術など近代的なものを手にして、我が国に来た四方が海であるがゆえに、日本列島を目指す外国人たちの接近は、いとも簡単であった。
公式なもの(幕府が関与したもの)はともかく、非公式なものを含めると、その数、結構多かったものと思われる。

技術、医術、芸術、自由主義思想、驚くものばっかりだったに違いない。
日本学で研鑽するばかりだった武士や学者は、悪く云うと西洋にかぶれて
いったのは無理もない話である。

日本の近代化の桎梏となっているのは徳川幕府であるとの短絡的な考えから、騒ぎ始めた不満武士たちや学者の卵がいてもおかしくはない。

徳川幕府が日米友好通商条約を結んで米国と交流を図るのは時代の流れから当然の帰結である。
海外との交易については幕府の専決事項で勅命は不要である。
それで問題はないのだが、当時の孝明天皇は知らぬふりして、反する攘夷の勅命を密命の形で出した。
尊王攘夷と云われる人たちが反徳川の狼煙を上げるために、焚きつけたのであり、それ以上の政治的な理由などありようがない。

幕府は幕命に従わない攘夷の輩を取り締まった。
安政の大獄と云われる。
過酷過ぎたのか、時の大老井伊直弼は桜田門外で、暗殺されてしまった。

また、攘夷の輩は、外国人に対する襲撃事件をそこここで起こし、混乱の世になろうとしていた。

孝明天皇は、この事態を沈め国家の安寧を図ろうと、皇女和宮を、
14代将軍家茂に降嫁したのであった。
公武合体により、安定志向を目指したのであった。

大名でいち早く動いたのは、薩摩藩島津久光であった。
公武合体を進めようとした久光は薩摩藩士千名を連れて上洛していた。
その時、久光の勝手な動きを不満とする薩摩の過激派等が九条関白や酒井所司代の暗殺を狙っていると聞き、彼らが薩摩藩の定宿、伏見の寺田屋に
泊っていることを察知した。

久光が宥めようとして配下の腕効きの者を寺田屋に向かわせたが、刃傷沙汰になったと云う。
何とか斬り従えることで、この場はようやく収まった。
このことで天皇から信頼を得た久光は、公武合体政策実現のために、この後、江戸へ向かったという。

前置きが長くなったが、このころ(1862年)、京都には、天皇や公家、幕府要人を狙う武力派浪士・藩士などが、横行していたことも明らかになったのである。

このような事態は幕府の責任であるとの考えから、将軍家茂は、一橋慶喜(よしのぶ、後の将軍)を将軍後見職に、会津藩主松平容保(かたもり)を京都守護職に任じ、京都の治安維持に努めようとしたのであった。

しかし、会津藩家中は、
「火中の栗を拾うようなものでござる。」
と、何度も何度も反対したのではあるが、
初代藩主保科正之(家光の弟)が作った家訓
『大君の義、一心に大切に忠勤を存ずべし。
列国の例を以って自ら処すべからず。
もし二心を懐かばすなわち我が子孫に非ず。
面々決して従うべからず。』
要は徳川宗家をお守りするのが勤めであるということに従い、最後は受けたのである。

容保は、藩士千人を従え、京の金戒光明寺に真夏の暑い日に着任し、ここを本陣とした。

容保は孝明天皇の信任も得た。
藩兵の天覧馬揃え(閲兵式)を挙行し、官軍としてのお墨付きも貰った。

更に幕府が将軍家茂上洛の警護隊として江戸にて募集した新撰組を、容保の配下とし、任務遂行に大いなる味方を得たのであった。

ここで少し解説をさせていただく。

筆者に云わせれば、徳川幕府や薩摩藩の云う公武合体も、長州藩有志の云う尊王攘夷も、全く同一の考えであり、目的は一緒である。

即ち、天皇親政を目指し、その内閣として武家が政務を司るということ、攘夷は幕府の米国通商に天皇が反対したタイミングで、天皇にゴマをすっただけで、今はもう完全に有名無実化している。

はっきり言えば、戦国時代に見た、単なる武家の覇権争いに過ぎない。
それを後世の歴史家たちが、尊王だの公武合体だのと解説するから、如何にも
政治闘争のように聞こえ、それが複雑化させているだけであると・・。

次々に事件は起こって行く。
長州藩は一部の公家と手を結んでいた。
三条家を中心とした公家たちで、勝手に天皇の勅命とかを偽造し、横暴を極めていた。
これを、孝明天皇が嗅ぎつけることになり、御所から長州藩を追い出すようにと云う勅命が容保らに下った。

容保は三条実美らとともに長州藩を御所出入り禁止にして、追い出した。
8月18日の政変と云う。
この容保の働きに天皇はいたく感銘を受け、容保に宸翰と御製を下賜した。今で云う感謝状と御歌である。
容保はこの宸翰・御製を小さな筒にいれ、死ぬまで身に着けていたそうである。

これで黙っている長州藩ではない。
次の年、
「長州藩の有志が、慶喜と容保を殺害し、孝明天皇を誘拐することをたくらんでいる」
と云う情報が新撰組に入り、探索した結果、河原町付近の池田屋という所でその謀議をしていることを突き止め、逮捕に行った。

当然に斬り合いとなり、新撰組や会津藩にも死者は出たが、あくる日にかけて全員を殺傷・捕縛した。(池田屋事件)

これで頭に来た長州藩、軍を御所へ差し向け天皇誘拐をたくらんだ。
見事に近代兵器で西洋式軍隊さながらの武装をしている。
ヨーロッパから導入したことは一目瞭然、
「何が、攘夷じゃ・・ 」と皆笑ったという。

近代兵器では会津藩も守りは難しい、何せ旧式の武器だからである。
そこに、有難いことに薩摩藩が守備陣に加わった これも近代兵器で武装している。
たちまち、長州兵を追い払い、御所は守られた。(蛤御門の変)

実は、薩摩の西郷隆盛はどちらに付こうか戦況を見ていたのであった。
長州に付いて賊軍として勝利を収めても、後がややこしい。
官軍に付くことで「天皇・禁裏に恩を売るべし」そう判断したのであった。

「このままでは、昔に戻ってしまう」
そう憂えた、坂本竜馬やその周辺の人たちがいた。
地下活動もしながら、精力的に動いていた。
その狙いは「徳川や会津を外す」の一点であった。

その甲斐あってか、薩長同盟が成立した。

それを知って将軍家茂は病没し、慶喜が15代将軍となった。

ついで孝明天皇も崩御した。
一説には暗殺されたとの見方もあるが、それには深入りしない。

親幕府派の孝明天皇の崩御により、流れは変わった。
徳川の出る幕は無くなったと判断した慶喜は土佐藩からの建白書を受けて、1867年の末に大政奉還を決定し、幕府は解散となった。

容保の京都守護職も新撰組も解任・解散となった。
しかし、御前会議では、慶喜はリーダー的存在で、これからもこの体制が続くものと考えられていた。

これを良しとしない薩摩始め数藩がクーデターを起こし、慶喜を追放した。
止むを得ず、旧幕府は、大坂に退去したのであった。

クーデター直後は倒幕派であった薩摩・長州の発言力は強かったが、時間と共に徳川に同情的な勢力が増えて行き、力関係は逆転しつつあった。
旧幕府を再び仲間に加える寸前まで来ていた。

しかし、ここはまた薩摩が動く。
薩摩が江戸で旧幕府軍を挑発し、戦争に持ち込もうと策略していた。
藩士や浪人達による、火付け、強盗などを頻繁に起こし、旧幕府を激昂させようとした。
その効果があって、旧幕府軍は挑発に乗ってくれた。
江戸の薩摩藩邸を攻撃してきたので、直ちに戦線布告をした。

戦わずして元のさやに収まる寸前まで来ていた慶喜は、この戦線布告を聞いて、ほぞを咬み、止むなく、武力を背景に京へ上ることになったのである。
鳥羽伏見の戦いに始まる「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」に突入していくことになるのであった。

旧幕府軍は一万四千、新政府軍は四千。兵の数から云ったら、旧幕府軍が圧勝である。
旧幕府軍は既に勝った気分で、会津藩士、桑名藩士を先頭に、大坂から京を目指し、鳥羽街道と伏見街道の二手に分けて進軍した。

旧院御所付近、鳥羽城南宮にて待ち伏せしていた新政府軍と出くわした。
どちらからともなく発砲した 開戦である。
新政府軍は、2倍3倍量の弾丸を撃って来る。
幕府軍は前進できないどころか、後退を余儀なくされる。
街道筋を行軍しているので、先頭付近しか戦闘出来ない。
大軍は無用の長物であった。

鳥羽街道の銃声を聞いて、伏見街道でも戦闘が始まった。
戦況は同じである。
旧幕府軍に、それなりの指揮官がいたら良かったのだが、新撰組の土方や見回り組の佐々木など、戦争を指揮したことのない連中しかいない。
個人戦は強くても、団体戦などしたこともない。

更に悪いことに、官軍の錦の御旗が新政府軍の陣地に立った。
予め用意していたものを朝廷の許可を得たということである。

伏見も後退を余儀なくされた。
旧幕府軍は一旦淀城まで引いた。
籠城できるよう掛け合ったが、門は閉ざされたままであった。
旧幕府軍は既に賊軍であるというのが、その理由である。
仕方なく更に南へ、八幡の石清水八幡宮のある男山まで引いて、陣を張った。

しかし、淀川の向こうの山崎には津藩が大砲陣地を構えていた。
そこから撃ち込まれたのだから、堪らない。
旧幕府軍は、浮き足だった。 大坂目指して逃げた。
さらに、慶喜、容保、酒井ら旧幕府要人らは船に乗って、江戸まで逃げ帰った。
それを聞いて、諸兵も大阪をあとに、散り散りバラバラになって、戦は集結した。

この日を持って、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。
また、旧幕府は朝敵とされ、朝廷において慶喜追討令が出されたのである。

江戸城はまだ健在だった。
江戸に着いて暫らくしたころ、容保は慶喜に呼び出された。
江戸城から離れろという命令である。
会津が江戸にいるのは迷惑であるという発想であるようであった。
冷たいものである。

容保は一言も云わず、
「徳川本家はこんなものだったのか。 こんなものを守ろうとしたのか」と
江戸を後にした。

容保は会津に帰った。
攻めの上って来る政府軍、会津にも押し寄せた。
少年隊の白虎隊、女子薙刀の「娘子軍」まで出て戦ったが、会津の城は落城した。
会津藩も滅亡した。

容保、会津藩が京都守護職に就く折、危惧した藩の滅亡が起こってしまったのであった。
もし行かなかったとしても、歴史の流れには竿をさせなかったのでは、と思われる。

その後の箱館戦争終結で旧幕府は消滅した。

京までやって来て、徳川宗家のために果敢に戦い、殉職した会津藩士352名は、金戒光明寺の高台の墓地で、今なお静かに眠っている。

「春の日に 藩士が見下ろす 京の今 賑わい集い 栄えたるかや」

〔松平容保 完〕