信長の後継者を決める清州会議では、三法師を担いだ秀吉に決まったような決まらなかったような…。

どちらにしても、この場の収拾は秀吉に任せておこうと云う空気があった。
それを見逃さないのが秀吉の特質でもある。
アレコレと施策を勝手に打って行く。

信長配下であった武将たち、計算高い者と筋を通す者とに分かれていた。
しかし大勢としては、秀吉への計算が働いたのであった。
勿論、背景には金をふんだんに使ったと云うこともある。

ここで余談であるが、官兵衛は倹約家である。
無駄な金は一切使わない。秀吉にも使わせなかった。
従って相当の財が秀吉の懐には、出来ていたのであった。

秀吉のここ最近の振る舞いを官兵衛は諌めたが、秀吉は聞かず、強引に実行したのであった。
「殿…。少しやり過ぎではござらぬか…。ここは、回りくどいようではあるが、時間をかけてがよかろうと…」
「なんの官兵衛、一気に行かにゃあ…。隙は見せられんワネ…。怒涛のごとくにな」

「徳川殿は、笑っておられるワ…。秀吉には組み易し、とな…」
「まあ、よいよい…。徳川殿は徳川殿である。東を治めてくれればな…」

官兵衛は言い過ぎたと思ったが、しかし真実である。
秀吉が統治することになっても、これは「長くは続かないな」と見た。

次の世は徳川が治めることになるであろう。
官兵衛は、
「ここら辺が潮時であろう。秀吉に深入りは危険である」
と判断して、以後は慎重に動くことにしたのである。

秀吉は賤ヶ岳やら、小牧長久手やら、紀州攻めやら、戦いを進めて行く。
秀吉軍が何ともならなかったのは、家康の本拠岡崎に迫る小牧長久手の戦いである。
家康とは、このラインに政治境界線があると云うことを明確にしたようなものであった。

次は、九州へも行った。
薩摩の島津が何を思ったか北上してきている。
九州全土を我がものにする積りであろうか?
豊前大友宗麟から援軍要請も届いている。

これ幸いに、秀吉は和睦をした中国毛利を先頭に九州攻めを行うことになった。
官兵衛は担ぎ出された。
薩摩攻撃軍の秀吉の代理、軍監である。

官兵衛は
「秀吉から遠い九州に落ち着くのも悪くはないな…」
と思いつつ、島津攻めに力を注いだ。
時間とともに島津を元の半島まで押し込めた。

官兵衛は秀吉の命にて、九州の目付となった。
官兵衛の望む通りである。
豊前国12万石、中津城主となったのである。

もうこれ以上は秀吉に接近するのは危険である。
そう決めた官兵衛、隠居宣言をした。
「如水軒」と号した。

如水とは古代中国「老子」の言葉「上善如水」から来ている。
「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る」
すなわち、最高の善は水のようなものでなければならない。
水は万物を助け、育てて自己を主張せず、だれもが嫌うような低い方へと流れて、そこにおさまる。
このような意味である。

しかし官兵衛は隠居したと云えども、まだまだ自らの成長は捨てていない。
官兵衛のような男、隠居して草木とともに生きていく筈がない。

秀吉の手前、このような悟りきった振りをしたまでであろう。
官兵衛にはこの先は、ようく見えていた。

秀吉は天下人への道を登って行く。
しかし官兵衛は、この急上昇は直ぐの急降下を招くと判断していた。
以後は上下関係で仕えるのみで、秀吉には熱く接近しなかった。
どちらか言うと放っておいたのであった。

官兵衛は、ここからは自らの家の行く末を重んじた。
そして、戦の道や政治の道を、半兵衛に助けられた息子の黒田長政(松寿丸)と共に、徳川を意識しながら歩いて行くのであった。

朝鮮との戦争への出兵もあった。
そして秀吉は亡くなった。
その後、天下は大揺れに揺れた。
関ヶ原である。
しかし、官兵衛は既に何が強いか、何と共ににすべきかは良く分かっていた。
決して間違った道は歩かなかったのである。

その甲斐あってか黒田家は息子の時代になって、大藩、筑前国福岡藩52万石を手に入れたのである。
そして、その係累は明治の時代まで続いたのであった。

福岡藩が誕生した時には、既に官兵衛は京都伏見の藩邸でその生涯を閉じていた。
59歳であった。

官兵衛の遺訓は、
『人に媚びず、富貴を望まず』
である。
そして生涯、決して仕えた人々を裏切ったことは無かったという。

江戸幕府第二代将軍、徳川秀忠は官兵衛を「今世の張良なるべし」と三国志の英雄に例えたと云う。

最後に余談。
官兵衛は築城の名手でもあった。
姫路城をはじめ、広島城、讃岐高松城など名城を残したのでもある。

〔完〕