徳川家康を始め、戦国の雄、織田信長、豊臣秀吉が共通に係わったものと云えば、人間を除いて、ホトトギスと本願寺であろうか。

家康は「鳴くまで待とう」と言ったのに対し、
信長は「鳴かぬなら殺してしまえ」と言い、
秀吉は「鳴かせてみせよう」と言った。
それぞれの武将の性格や振舞を表しているとの例えである。

それでは、本願寺に対してはどうか?
古い順で、考えて見ると…、
信長は本願寺と徹底して戦い、完膚無きまでに叩きのめした。
秀吉は本願寺の再興を認め、自らの勢力の一部として利用しようとした。
家康は本願寺勢力に東西の内部分裂を持ち込み、その弱体化を図った。

各人各様であるが、その性格のなせる業か、戦略にも現われ、云い得て妙である。

少し歴史を振り返ってみる。

先ず、織田信長とのこと…。
信長は敵対する宗派に対しては真っ向から戦いを挑み、殲滅してきた。
叡山天台宗はもとより、本願寺も同様に破壊した。
本願寺の時は、
「法主一族を助けるべし」
と云う天皇の願いを聞き入れ、和睦という形で、放逐して戦いを終結させた。

和睦を無視した鼻息の荒い法主の長男、教如一派は大坂石山本願寺を動かなかったが、引き続き朝廷の説得することとなり、最後は退去した。
教如は本願寺に火を放ち、退去したという。
大坂の石山本願寺は灰燼に帰し、教如も行方不明となったと云われている。

次に、秀吉とのこと。
秀吉は、信長のような一貫性はなく、分かりにくい。
宗派を味方に取り込もうとしたり、反対に破壊しようともした。
山の上から見下ろされ、いつ何時攻めてこられるかとの恐怖であろうか?
山岳宗教は嫌った。
紀州の高野山真言宗根来寺を大軍で攻め、全て焼き尽くした。

一方反対に、この本願寺を上手く使おうとした。
信長軍の一大将としてあれだけ戦ったのにである。
全く一貫性無し、もっと云えば哲学がない。

信長亡き後、大坂城の築城とともに、大城下町を仕上げる構想の中の一つに、城下町の一角に本願寺を設け、多くの人で賑わいを興そうと云う計画である。

大坂天満に顕如を呼び寄せ、天満本願寺として再興させた。
場所は現在の桜の通り抜けの造幣局のあたりと云われるが、現在は跡形は何もない。

秀吉は調子の良い男である。
信長が亡くなってから、暫らくして、天皇家のために隠居所、仙洞御所を建て、正親町天皇を希望通り隠居させ、その孫、後陽成天皇の即位を助けた。
信長は天皇を無視したが、秀吉は金にものを言わせ、手のうちで扱おうとした。

そして、新天皇誕生の恩赦にて、教如の勘当を解き、本願寺に帰ることを許した。
法主顕如の下で、教如と三男准如の三人立てで、本願寺は見る見る勢いを取り戻したのであった。

秀吉はの戦闘はまだ続いていたが、大坂城の建設や京都建設にも力を入れた。

京都建設においては、天皇家の隠居所(仙洞御所)の他に、関白宣下を受けてからの聚楽第築城、自らの住まいとしての京都新城、国内最大の豊臣家の氏寺の方広寺、そして伏見城、御土居、寺町への寺院の移設、枚挙に暇がない。それには、各大名の出費は大変なものだったろうとも思われる。

京都建設も一段落した頃に、北野大茶会を開いたりして、権勢を見せつけるようなこともした。

後陽成天皇から用地を貰い受け、七条堀川の地に本願寺(現西本願寺)を建設したのは、最後の留めであった。

そして、自からの方広寺と本願寺を結ぶ線に道路を作り、方広寺の正面に当たることから正面通りと名付けたのであった。
後にこの通りは東山に登って行き、豊国廟へと繋がる道にもなったのであるが…。

話を本願寺に戻す。
京に本願寺が移ったあくる年、法主顕如上人が病没した。
後目は教如が継いだが、先に石山本願寺で教如と一緒に籠った強行派ばかりを重用したため、これが次の紛争のタネになったのである。

先ずは、教団内で強硬派と、おとなしい准如の穏健派との対立が起こった。
この争いを見て秀吉は教如を大坂に呼び付け、11ヶ条を連ねた条文を突き付け、10年後には法主の座を准如に譲ることを約束させた。

これを聞いた強硬派の坊官は怒り心頭、秀吉のところへ直談判に行ったが、返って秀吉を怒らせてしまい、
「教如は即隠居せよ」
と言わせてしまったのである。

これ以上は逆らえない。
教如は本願寺の片隅に隠居堂を建て、そこを居住所としたのであった。

時が経って、秀吉も病没して、教如の頭上の脅威もいなくなった。
教如は急速に家康に接近した。

家康のところには、信長に潰された叡山の僧、代表格は天海和尚(明智光秀改め)、秀吉に叩かれた根来・雑賀衆、そして信長に滅された本願寺の教如と、錚々たるメンバーが集まっていた。
これらの僧を家康は、力になってくれる者として側近に迎えたのであった。

時は関ヶ原の前夜…。
家康は各武将の情報収集と諜報活動に忙しかったが、これらの者が大いに手助けとなった。
さすがに、僧と名が付けば、説教や説得が上手いものである。
それぞれ存分に働いた。
勿論、武術に長けた僧は戦いの準備にも余念はなかった。

教如は、痩せても枯れても、本願寺法主である。
何処へ行っても、一目も二目も置かれ、多くの武将を家康方に取り込むことができたのであった。
家康は教如を「その功績、大いなる者」としている。

教如は関ヶ原でも家康の傍にて参軍した。
元々、口も立つが武闘も大好きである。
喧嘩っ早い僧たちといつでも戦える体制でいたが、その機会はなく、戦闘は短時間で決着がついてしまったのを残念がったと云う。

家康は関ヶ原の後、教如を本願寺の法主に戻すことを考えていて、もう口先まで出かかっていた。

そこに意見を具申したのが、本多正信である。
この正信は、家康を震いあがらせた三河一向一揆の時に本願寺側にいた人物、その後は家康の謀臣として仕えている人物であった。
裏わざには、結構長けた武将である。

「本願寺の表方(准如)と裏方(教如)との対立はこのままにしておき、徳川家としては教如を支援して勢力を二分した方が得策でござる」
「なるほどな…、上手いこと考えるもんじゃ。正信は悪智恵だけは良く働くのう」
と、本願寺を二分することになった。

「場所を何処にするかのう?」
「そのことでござる。方広寺、豊国神社、豊国廟と本願寺のを結ぶ正面通りに置いて、秀吉祈願の道をぶち切るのが良いと存ずるが、如何に?」
「なるほどな…」

「ついでに、秀吉の鶴松の菩提寺祥雲寺を取り潰しに…。その跡に、秀吉の潰した根来寺(現寺号:智積院)を建てさすと云うのが、良策と存じまする」
「ふん、ふん…」
「正信、ごちゃごちゃ言わないで、全ての絵描きをして見よ…」

家康に言われて、正信は言った他にも、方広寺の縮小とか、他にも考えを盛り込んで、後日、家康に上申した。

関ヶ原の翌年から、新本願寺建設が始まった。
後陽成天皇の勅命と云う形で、現本願寺の東、烏丸通りに面して、
四町四方の土地が用意され、本願寺の隠居堂を移転する作業が始まった。

本願寺の准如以下の僧たちは、やっと邪魔ものがいなくなってホッとしていた。

しかし、それだけでは終わらない。
親鸞上人をお祀りする御影堂の姿が見え始めた時、皆仰天した。
何と京都一のバカでかい、お堂が出来上がって行くのであった。

しかし、本願寺の僧たちは穏健派、騒ぎ出すことはしない。
ゆびを咥えて、見ているだけであった。
阿弥陀堂も建てられた。
広い寺域も、狭くなったようであったと云う。
翌年、上野厩橋(現群馬・前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、新本願寺が機能し始めたのであった。

同じ本願寺が二つ並んだのだから、ややこしい。
旧本願寺を西、新本願寺を東と呼ぶようになり、現在まで続いている。

後年、東本願寺は将軍家光から、門前から河原町までの広い土地を貰い、
渉成園・枳殻邸(きこくてい)という大庭園を作園し、徳川の隆盛とともに、栄えたのであった。

家康の思いは現在にも生きている?
との考えは、行き過ぎであろうか?

〔完〕