信長を襲って殺めたのは誰か?
謎ではある。

このころは、第三次信長包囲網と云うことで、信長に恨みを持つ者、横暴に手を焼く者、はたまた戦争中の者、多くいた。
得した者を疑えと云うが、真っ先に毛利、朝廷・禁裏、秀吉、家康…。
恨みは、武田遺臣、浅井・朝倉遺臣、伊賀者、叡山・・・。
畿内にいる者は、大抵の者が、大小はあるが、恨みを持っている。

これらの者が暗殺集団を結成して襲ったのに違いないと思われるが、
ここでは、犯人探しが主旨ではない。

それからの数日、光秀は多忙を極めた。
信長が急逝したので、その代理政務をおこなうべく、安土へ真っ先に行った。

政治を行うのではない 情報網のコントロールである。
信長配下の武将たちは、各地で転戦中。
この隙を衝いて、反信長勢力が、いつなんどき、襲ってくるかも知れない。
信長の逝去を伏せること、これを真っ先にやった。

但し、大坂堺港で、四国攻めのため待機中の、三男信孝、丹羽長秀だけには、状況連絡した。

安土、京都、そして亀山、軍を3分して、守備を固めていったのであった。
それこそ、戦々恐々の状態であった。

あわただしく、一週間が過ぎた。
光秀はまだ安土にいた。

そこに、勅命が届けられた。
『逆賊が大坂から攻め上ぼって来る これを征伐せよ』

「逆賊は誰だ?」と聞いた。
「秀吉!」との答え。

「まさか?」とは思ったが、命令とあらば、行かなければならない。
とりあえず、長岡に向かって、発進した。
「禁裏の謀略の可能性ありや」
とは思ったが、どうすることもできない。

安土の軍はそのまま残して、京都と亀山の部隊で護ることにした。
援軍も入れて、8千ぐらいなら行けると踏んだ。
「長岡・勝竜寺に集結せよ」
と命令を発した。

俗に云う山崎・天王山の合戦へと続く。話が長くなるが、もう少し続ける。

自軍だけでは、5千ぐらいしかない、近隣の、細川、筒井を始め、高山、中川など、主だった者に、
「逆賊を討つ、援軍所望」
と召集状を送った。

山崎で防御することにした 隘路を先ず封鎖した。
その日は布陣で終わった。
急な行軍・布陣のため、準備は万全ではなかった。
信長が襲われて10日後の、6月12日のことであった。

あくる13日の朝、近隣の、高山隊、中川隊の軍旗が見えた。
援軍に来てくれたと思って、守備隊先鋒の斎藤隊が通そうと思った。
その時、なんたることか、襲いかかって来たのである。

彼ら、高山や中川隊は、経験もなく、そんなに強くはない。 軽く退けた。

それから、昼ごろまで、加勢もあり、押したり引いたりで、小競り合いを続けた。

それは、秀吉の策略であった。
秀吉本人到着までの時間稼ぎ、それに天王山の占領、この2つ。

天王山は戦場を間近に見下ろす絶好の場所、これを取らない手はない。
天王山に陣取った秀吉、小高い所に物見を出し、一斉攻撃の合図に、織田の旗と、秀吉の旗を立てさせた。
この場所、今でも旗立て松と云われている。

秀吉の言い分は、信長公の弔い合戦、名目上の大将に織田信孝を担いでいる。

『主信長を殺めたのは、光秀』
秀吉から、四方八方に言いふらされていた。いつもの手である。
世間にも弔い合戦との見方が既にできていた。

光秀の所にも、そういう話が、あちこちから聞こえて来ていた。
「違う」と宣言しても、もう、伝える手段もない。

勝負はまたたく間についた。
一斉攻撃から約2時間、光秀守備隊は任務を放棄して、壊走せざるを得なかった。

一旦、勝竜寺城へは入ったが、守れるような城ではない 夜陰にまぎれて、やむを得ず、亀山城に向けて、皆、壊走した。

2万を擁する秀吉の軍、この後も光秀軍を追走する。
亀山城を襲って、系累者は皆殺し、坂本城も襲う、それはもう凄まじいものであった。
これにて、明智の系累は途絶えたと云われている。

さて、光秀はというと、嵐山のとある寺院を目指した。
信仰深い光秀のこと、かねてより寺院並びに住職と親交を深めていたのであるが…。
住職からは、
「ここは、危険じゃ…」
と言われ、
「ここなら…」
と別の寺が指し示されたのであった。

山崎の合戦は終わったが、いくつかの疑問がある。

現在、亀岡市郊外の谷性寺(こくしょうじ)にある、光秀の首塚は何?
光秀はこの寺の不動明王をこよなく愛していた。
この不動の側で永眠したいとは、かねてからの願いであった。

この時代のこと、事態を想定して、あらかじめ首塚を準備していたのであった。
この首塚、お堂の不動さんの前にあるが、お堂の方を向いていない。

お参りする人が、不動さんに背を向けることになるため、横向きである。
いかにも、人思いの光秀らしい配慮である。

もう一つの疑問、秀吉。
山崎の合戦への彼の情熱と中国大返しのこと。

秀吉は情報網・諜報網の構築には余念がなかった。
第3次信長包囲網の動きにも、もちろんスパイを送り込んでいた。
更に大坂にいる信長子息の信孝と丹羽長秀周辺にも送り込んでいた。

いち早く本能寺の連絡を受けると、光秀の主殺しの風評の撒き散らした。
それによって摂津にいる光秀派の高山や中川の寝返り、更には近隣諸侯の反光秀行動、仕上げは、肝心の信孝・丹羽を足留めし、京都に行かせない工作をしたのである。

これらのことが全てを決めると思っていた。
そして、13日の朝の秀吉到着まで、高山と中川の力で摂津にて信孝と丹羽を釘付けにし、待たせたのであった。

もちろん秀吉のこと、金はある。
沿道への兵糧の備えは完壁である。
それと武具は、海路で運ばせた。
万が一到着が遅れても、四国攻め用のものを使えばよかったので、総勢、空身での移動であった。
1週間で200kmの移動、これは可能な線であったろうと思われる。

そして、信長の殺人者光秀を 秀吉が見事討ったことになったのであった。
こう上手いこと進むと、秀吉も信長包囲網の中にいて、仕組んでいたのか?と、錯覚を起しそうではある。

最後に後日談…
信長や家来の菩提を弔っている阿弥陀寺でのこと…。

ある日、山崎に城を構える秀吉が尋ねて来た。
「信長公の葬儀をする故、ご遺骸を引き渡していただきたい」
偉そうにいう。
「葬儀は済ませた故、その必要はない。公の戦いは終わり、成仏して彼岸におわせる」
「寄進をはずむ故、是非に引き渡してもらいたい。貴僧には、迷惑は掛けん…」
しつこい。

「拙僧は、信長公と幼少の頃から、ともに育ってきた者ござる。身内でござるよ…。身内が弔い、お守りするのは至極当たり前であろうが…。貴殿に、そのように言われる筋合いはない」
これ以上、言うと秀吉は怒るかも知れないと云うぎりぎりの線である。

『貴殿が、毛利にすんなり勝っていれば、こうはならなかった。貴殿が格好付けて信長公を呼んだりしなければ…、貴殿が、信長公を殺したようなもんだ』
と云いたかったが…。
清玉は、織田家の墓を守ることが、織田家に世話になった少しでもの恩返しであると思った。

これで、秀吉は引き下がった。
そのあと、秀吉は大徳寺に信長の戒名と同じ塔頭総見院を建立し、信長の葬儀を行ったことは良く知られている。

程なく秀吉は信長の偉大な志しに反して、朝廷にも取り入り、天皇の家来、関白となった。
阿弥陀寺は寺領を狭められ、現在の寺町の場所に移動させられたのが、仕返しであろうか?

現在も阿弥陀寺で、革命を目指した孤高の人信長とその子信忠、それに寄り添うように森三兄弟が眠っている。

 

 

 

 

 

 

少し離れて、清玉上人も眠っている。

〔完〕