1
三木城の兵糧は完全に底をついた。
城主別所長治は、城内8千の全ての兵や女、子供の命と引き換えに切腹することを決意し、秀吉側に伝えてきた。
喜んだ秀吉は、これこそ城主の鏡であるとして、それを受け入れ、おまけに酒肴などを届けたと云う。
1580年1月17日、別所長治及びその一族は自害した。
そして三木城は、開城となったのである。
気になるのは、摂津伊丹の有岡城の攻防である。
織田軍に包囲されているが、万事休すとなる前に、城主村重は自ら毛利の援軍を尼崎の津まで懇願に行った。
しかし毛利は毛利で本願寺攻めで手を焼いており、そんな余裕はなかったのも事実である。
頼まれても、
「嫌!」
と云う毛利軍、その冷たさは見上げたものである。
村重は目的が果たせないまま、有岡城へ帰ろうとした。
しかし途中で城が炎上しているのを見た。
家族のことより、官兵衛のことが心配となった。
「あの男、上手く逃げ出せたであろうか? 織田家中ではほとんど無名な故、捕まったりしても、上手く申し開きできたであろうか?」
もう有岡へ帰っても仕方がない。
尼崎も危ない。
「儂だけでも毛利に合流して、再起を期すんじゃ…」
と神戸、花隈城に向ったのであった。
少し前、官兵衛は戸惑っていた。
有岡城は織田軍に包囲され、もう風前の灯である。
官兵衛は任務に忠実である。あくまでも忠実である。
村重を説得して、織田軍に戻すこと。
この任務がまだ終わらない。
まだ白黒は付いていない灰色であるのに、織田軍は黒であると決めつけ、城攻めを行って来ている。
村重は仕方ないので、毛利に援軍を求めに行った。
村重には
「やめろ!」
と云ったが、それも聞き入れられなかった。
2
有岡城の官兵衛、
「儂はどうすべきなんであろうか?」
答が得られないままに日々を過ごし、城が攻められる。
この始末である。
「何もできないまま、播州に帰るのか…? そんなことはできやしない…。説得使としての任務が果たせない。大恥である。
しかし、このまま殺されるには忍びない。しかし、逃げるわけにも行かない。」
間もなく寄せ手が城内になだれ込んで来る気配である。
「城内で身を隠すのがよかろう…」
地下の兵糧庫に逃げて、隠れることにした。
城内では火災が発生している。
梁が燃えながら、天井が燃えながら、落下してくる。
その中を、地下目指して逃げたのであった。
無事に辿りついた。
ここまで来れば、火災に巻き込まれることはない。
ほっとした瞬間、体中に痛みを感じた。
体中は傷だらけである。
中でも、足に大きな傷を受けていた。
「もう、どうにでもなれ…!!」
万事休す、寝転がったのであった。
どれだけの時間が経ったのであろうか?
誰かが地下庫にやってきた。
この時代、城なり屋敷なりを破壊・炎上させた後、地下室を調べるのは常である。
その理由は、まず金・銀である。そして金目の宝である。
火が消えた後を漁り回り、めぼしいものを戦利品として持って帰るのである。
驚くほどの大金に巡り合うこともある。
やってきた輩、ごそごそと何かを探している風であった。
そのうち此処にやって来るであろう…。
官兵衛は体を動かしてみた。その音は相手にも聞こえたはずである。
「誰だ?そこにいるのは…」
「う~ん、う~ん」
官兵衛はかすかに唸ってみた。
「怪我人か? お主は誰だ?」
「う~ん」
相手は、官兵衛に武器が無いか調べた。
大丈夫と見た相手は、官兵衛をここから連れ出してくれそうな様子であった。
3
「済まぬのゥ…。織田信長家中、藤吉郎が家来の播磨の小寺の官兵衛じゃ…。助かり申したワ…」
「聞かぬ名前じゃのゥ…。それにどうなされたのでござるか?」
「いやいや、国を出て捕えられて一年、やっとの思いで出られたわ…。陽が眩しいのゥ…」
(官兵衛は村重を説得できなかったことを恥して、捕えられたことにしておいたのであった。)
「そりゃ、大儀なことでござったなァ…。殿のところへお連れ申そう…」
はて、殿とは誰であろうか?
存知寄りの殿であれば、いいのだが…。
しかし足はどうにもならない。
片足を引きずりながら、殿のところまで案内されたのであった。
殿は池田元助であった。弟輝政も一緒にいた。
池田恒興の息子達である。
戦場で指揮を執っていた信長はというと、
「元助、後は任せたぞ…」
と一言言って、京から安土に向け、もう帰ってしまった後であった。
「おう、藤吉郎のところの官兵衛殿か? 地下に閉じ込められていたそうじゃが…? そりゃ、大変じゃったのゥ…。
儂はここを守るが、輝政は播磨へ直ぐに出立するでのゥ…。一緒に行くがよかろう…」
「池田殿、済まぬのゥ…。お願い申す…」
官兵衛は播磨に戻ることになった。
官兵衛は秀吉方の播磨三木の陣、平井山まで帰って来た。
一年ぶりである。
秀吉は真っ先に迎えてくれた。
「おゥ、官兵衛、無事であったか。よかった、よかった。」
「ただ今戻りましたが…。力にはなれなかったのは、残念至極でございまする。村重殿の説得、叶いませなんだ…」
「まあ良いではないか。そっちの戦は、かたがついたことでござるからな。まあよいよい。暫く、休んでおるが良かろう」
4
三木の城の戦いは前述の如く、別所長治一族の自害、開城で決着がついたのであるが、官兵衛がその秀吉の砦に帰ってきたのは、その決着が付くひと月前であった。
官兵衛が村重の説得に出発したのは、三木城包囲を始めてから半年後のことであるから、この兵糧攻めは、もう1年半も続いていることになる。
誰もがこんなに長くはかかるとは思っていなかった。
城内の貯えが豊富にあったのであろう、それに加えて、裏の隠れた搬入ルートもあったのであろう。
秀吉軍は、長きにわたり城を包囲することを続けた。
日々の主な任務は周囲からの援軍の来襲の有無の監視である。
それと、城内から討って出てくる隊への対応である。
秀吉方は、最初は三木城を封鎖することに加えて、周辺の諸城を落とすことに専念した。
それは全て上手くいった。
後半は兵糧切れを待つだけの半年であった。
討って出てくるのも、もういない。
待つだけというのは、軍にとっては良いことではない。
危機感を持たず、何となく日々を過ごす。心身共に伸びきった兵がゴロゴロするだけである。
そんな悪いパターンが軍に蔓延しつつあった。
付近の屋敷や家屋に侵入して金品・食糧を略奪したり、婦女子に乱暴を働いたり、そのような兵が出ていたのであった。
官兵衛は帰ってきて、それを聞いて落胆した
このあと、この地を治めて行くことが大事であるのに、それでは領民の信が得られない。
早急に兵を戒めなければならない。
ここまで考えて、秀吉に進言した。
「藤吉郎殿、戦に勝利しても、民には負けてしまうでござる。いかがなものでござろう…?」
「わしもな、気にはなってはいるんじゃが…。かといってな、方法が見つからずでな…。」
「いやいや、藤吉郎殿、そんな甘いことを言うてる場合ではござるまい。軍には統制と云うものが大事でござろう。答を先に示そう」
5
官兵衛は続けた。
「七人組を作りなされ。そしてそのうちの誰かが悪事を働いたら、全員を刑に処するとしなされ。相互監視じゃな…。更にな、悪事を働く組を見つけて申し出たら、扶持は増やしてやると触れなされ。これで万全じゃ…。不埒な奴はいなくなり申そうぞ…」
「ふむふむ、なるほどじゃな…。早速そうしてみるか…」
秀吉方の兵の悪事はこれで片が付いた模様である。
そして間もなく、
三木城の封鎖は、前述のように別所長治一族の自害で決着が付いた。
この封鎖作戦が播磨の人々には受け入れられたのであろう。
主を失った武士は新たに主を求めて、秀吉のところにやってきたのであった。
官兵衛は次のような話を、主だったものには伝えていた。
「我らが殿、羽柴殿は大様な人にて、主無くした武士は抱えるつもりであると云うてござる。来たい者は来て良いぞ、儂が仲立ちをしてやるでのゥ…」
もと播州の家老がこのように声をかけてくれる。
別所方に付いて敗戦したばかりに、将来を悲観していた播州の武士や領民達には神の言葉にでも聞こえたのであろう…。
この言葉の効果が大いにあったのである。
しかしこれは、この後の播磨の統治を上手く進めると云う官兵衛の作戦である。
土着の武士と新領主の融和作戦としては当たり前ではあるが…。
秀吉は姫路城を改修し居城とした。
官兵衛は事務局長兼軍司令の役で、秀吉に仕えることになった。
この時から、官兵衛は黒田官兵衛と称するようになった。
秀吉は名実伴に、播磨を支配することになったのである。
そして官兵衛も秀吉の片腕、それどころか頭脳と両腕として、活躍することになったのである。
織田軍の播磨占領後の残務も落ち着いた頃、官兵衛は城内に我が一族のうち子の松寿丸(後の黒田長政)が居ないことに気が付いた。
秀吉に聞いてみた。
6
秀吉は、「おう…。言うのが遅くなったなァ…。許せよ…。松寿丸のことはな、大殿様から『官兵衛が裏切ったようじゃ、人質を殺せ』とのご命令があったんじゃがな…。儂とな、半兵衛との判断でな…。殺したことにして、岐阜の半兵衛の弟君のところに匿ってもらってるんじゃ…。そのうちにここに戻って来るじゃろう…」
「そうでござったか…。それはそれは忝い。半兵衛と弟君にのゥ…。世話になったんじゃなァ…。今は亡きお人でござるが…、この恩は一生涯忘れんでのゥ…」
と暫し半兵衛の恩を思い、泣き崩れたのであった。
後日譚であるが、官兵衛の息子松寿丸(黒田長政)を初代藩主とする筑前福岡藩は、半兵衛の一族を家臣に迎え、この恩に末永く報いたと云われている。
三木城開城により播州をほぼ平定した秀吉隊。
それに、この間、石山本願寺の和睦と有岡(伊丹)を始め摂津の平定をした信長本隊。
それに丹波を抑えた明智光秀隊。
勿論、大和や伊賀も信長の手中に落ちていて、畿内はほぼ平定されていた。
向かうところ敵なしの状況になっていた信長軍であった。
しかし秀吉の戦いは、ここで終わりではない。
この先は本題の毛利の領土に入り、中国攻めを始めることになる。