歴史というものは、支配者・勝者の歴史であると言っても過言ではない。
勝った者たちが、メディアを握ってしまう、それはそれで止むを得ない。

勝者には勝者として相応しいものが、数多く残っているが、敗者には敗者に相応しいものしか、残されない。

真実の検証は、困難であるのが常である。

織田信長が、畿内をほぼ手中におさめ、近江琵琶湖岸に安土城を築いて以後の、絶好調の頃の話である(本能寺変の1年強以前)。

都にて、天皇や公家や将軍家に信長の威光を見せつけるべく、一大デモンストレーション「御馬揃え」なるものを御所の内裏の「東」で行った。

この行事には、正親町天皇を始め皇族方のご臨席を仰ぐとともに、近衛前久など公家方ももちろん参列した。
信長軍武将の馬上パレードである。
このイベントの運営責任者は当然ながら、信長軍の京都守護役明智光秀であった。

まさに、信長の天下を威武するものであった。

「素晴らしい眺めじゃ…。 ここまでよく来たもんじゃ」
と独り言…、信長はこれ以上無いというほどの、上機嫌であった。

しかし、この有頂天の信長とは裏腹に、天子や公家は、臍をかんでいた。
「これは、臣下の礼を取れと云うことではないか…」
「信長め…、今に見ておれ…」
この日を境に、三たび目の信長包囲網が、形成されて行くのであった。

光秀は「御馬揃え」の数ヶ月前に、今で云うイベント企画書を信長に提出した。
中身は『パレードは内裏の南、建礼門前、武将は馬、他は徒歩』であった。

信長はそれを一蹴、挙行された通りの構想を光秀に指示した。
光秀は、
「それはあまりに畏れ多い 御一考を…」
と言ったが、また、一蹴された。
信長の性格を知り抜いている光秀、「御意」と…。

包囲網の1度目は武田信玄の上洛に合わせて、2度目は本願寺と上杉謙信の上洛に合わせてで、将軍義昭の誘いにより反信長勢力が呼応した動きをした。

今までの2度の失敗から、秘密裏に進めること、また、正面切っての戦いではなく、不意を襲うこと、暗黙のうちに方向は決められていた。
第3次信長包囲網である。

問題は、誰がこの包囲網に加わって行くかである。
興味はあるが、水面下であるため、分かり様がない。

公家連中の怒りは、高まっているはずである。
それに、将軍義昭は、必ず居るはずである。
信長配下の武将は誰もいない。いない筈である。

先の御馬揃えにて、天皇に軍を観閲頂いた時点で、信長軍は正式に官軍となった。   何事にも筋を通す信長、各地への侵攻に、これ以上はない大義名分が出来たことになった。

これ以降、北陸富山、丹後、中国、和歌山高野山、各地で戦った。そして、勝利を収めて行くのであった。

武田勝頼の武田領の諸城も攻めた。息子、信忠が主人公の戦であった。
10万の大軍である。滝川一益の働き大きかった。怒涛のごとく押し寄せる信長軍を見て、穴山信君などは戦わずして降伏したと云う。
勝頼を自害させた。この戦にて、武田の系累は途絶えたと云われる。

信長がいよいよ中国の毛利との戦いに出陣する前日、天正10年(1582年)6月1日、信長の逗留していた本能寺にて茶会が催された。
茶会の後、信長は「敦盛」を披露したほど上機嫌であったと云う。
『人間五十年、下天のうちをくらぶれば 夢まぼろしの如くなり
ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか』

信長は明日の出立を控えて、側近を並べ、
「明日からは戦じゃ…、敵は毛利じゃ、何が起こるか、分からんが…、よもや儂の息の根が止められることがあったとしたら、髪の毛一本までも、敵に渡すな! しかと心得よ!」
と云い、床に就いたのであった。

寅の刻、午前4時、黒い影の集団が本能寺に忍びこんだ。
およそ3~40人はいる。
信長の寝床は知ってるらしく、まっすぐに進んだ。

その時、信長は厠に立った戻りらしく、部屋の前で鉢合わせた。
無言で、剣を振り下ろした黒い影、信長は倒れた。
『ド~ン・・』という音に、隣の部屋から数名の近習が現われた。

信長にも槍が渡され、信長を守る形で、斬り合いとなったが、勝負はついた。
百戦錬磨の武装集団は強かった。

「是非に、及ばず・・・」
とつぶやいたのが、信長最後の言葉となった。
信長に自害を促し、駆けつけた信長の手の者をあらかた殺戮したところで、その集団はサッと散って行った。

他の者も駆けつけては来たが、時すでに遅し、後を追うもの、うろたえるもの、収拾が付かない状態であった。

少しの間があった。
息子信忠のいる二条陣屋へ走る者、親類同様の阿弥陀寺へ走る者、そして光秀のいる亀山城へ向けて走る者…。

その頃、同じように二条陣屋の信忠も襲われていた。
信忠は少しは立ち回ったが、やはり殺られた。
ここもあらかたの殺戮劇が終わったところで、黒い集団は、サッと引いた。

この前日のこと、亀山城の光秀は、明日の出陣の準備に、忙しかった。
半月ほど前、安土城にて家康の接待役として、忙しい日々を過ごしていた。
信長に突然、
「6月にもなれば、四国攻めをする 光秀も来い」
と言われた。
「家康のことはもういい。御仁は明日から大坂見物じゃ。早々に準備・出立せよ」
と云われて、帰城し、準備に余念がなかったのであった。

ご承知かと思うが、光秀は京都の守護役、信長の京都滞在中は、部下がいつもは周辺を固めていた。
しかし明日からは亀岡に光秀軍が不在となるため、警護部隊を屈強なメンバーに入れ替えて、隊長を娘婿・秀満にして少人数でも守れるように、しようとしていたのであった。

明るいうちに交代を、としていたが、準備が整わず、交代部隊の出発が夜遅くになってしまった。
そこに、隙があった。そこを狙われた。

本能寺で惨劇があった時刻、一万三千の光秀軍は信長を迎えるべく、亀山を出発して、老いの坂の峠の手前まで来ていた。

尾張で信長と兄弟同様に育った清玉上人の阿弥陀寺にも直ぐの知らせがあった。
上人は直ぐに塔頭の屈強な僧20人ばかりを従え、本能寺に急いだ。
清玉が本能寺に着いたのは、ことが起こってから半時余り後、5時半ごろであった。

既に信長の手の小者が信長の言いつけ通り、遺体を荼毘に付しているところであった。
もう手の施しようがない。清玉は念仏を唱えながら、かつてのことがよぎり、嗚咽ながらの経を唱えた。涙も止まらなかった。

遺骨を納め終わったところで、小者がその残り火を本能寺の建屋に移した。
信長公への派手な送り火である。
本能寺は暫らくして燃え上がったのであった。

光秀は、京が見える老いの坂峠で、本能寺からの使者と出会った。
軍をそこに留め、近習達100騎ばかりで本能寺に駆けた。
桂川を越えた辺りで、燃え上がる本能寺を見たのであった。
これも時すでに遅しであった。

清玉は、信長の遺骨を抱いて、阿弥陀寺に急ぎ帰った。
本堂に安置し、その後、二条陣屋へ走った。
二条陣屋には、死体のほか誰もいなかった。
信忠始め、亡骸を全て阿弥陀寺に運んだのであった。

後日譚であるが、襲われた時に、あら方のものは逃げた様で、戦ったのは、信忠ほか10数名だったという。
逃げた中には、信忠の叔父・織田有楽斎もいたという。冷たいものである。

阿弥陀寺本堂では、織田家一族の亡骸を前にして、読経していた。
塔頭からも全ての僧が出て、その読経は、蓮台野一帯から、御所まで届いたと云う。

あくる日から寺の墓地にて、遺体を荼毘にふし、懇ろに弔ったのであった。

さて、本能寺に駆け付けた光秀であるが、寺は燃え落ち、くすぶりの中を捜索したが、信長の遺体はおろか、何もみつからなかった。

そのあと、二条の織田陣屋にも行ったが、誰もいない。
近くの阿弥陀寺に行った。  読経の最中であった。
僧を捉まえて事情を聞いたが良くは分からない。
織田家の弔いをしていると云うことで、それに暫らく加わった。

光秀は、京都を始め畿内の守護役を信長から仰せつかっている。
軍の内、半数を出陣体制のままで亀山に帰し、半数を京都に来させた。
内半数は、安土に行かせ、守りを固める予定であった。

軍が京に到着したころ、近くにいる近衛家の近衛前久に伴われ、参内した。

光秀は、天皇から、都を護るようにと云う勅命をもらった。
これより光秀軍は官軍として振舞うことになる。
軍三千を京都に残し、残り三千を従え、安土に向かった。
信長亡きあとの混乱を鎮める目的である。
〔完〕