1
どうして家康と秀吉が、最初で最後の戦いをすることになったのか?
信長の亡きあと、その後目をめぐって、筆頭家老柴田勝家に難題を吹っかけた秀吉、強引に信長の孫・三法師を後目に据えた上、自らも後見役となり、その上、勝家までも滅ぼし、三男・信孝を自害に追い込んだ。
また、信長の二男・信雄を安土城から退去させ、長島城に押し込めたのであった。
秀吉は明らかに、信雄との対立の険悪化を狙っていたようであった。
そんなことから、信雄は家康を頼るようになっていた。
一つの出来事は、秀吉の調略である。
信雄家臣の3人の家老が謀反を企て、秀吉に内通していると云う噂を流したことである。
信雄はこの3人を処刑し、そして家康とはっきりと同盟を結んだのであった。
こうなっては、戦の気運、充満である。
家康も今度は本気で戦う準備を進めた。
当初家康は、戦場は信雄の本拠、北伊勢・長島あたりになるとの予測で手を打ち、軍の準備は行っていたが、状況は変わったので慌てた。
なぜ尾張の小牧・長久手が舞台になったのか?
事の起こりは、織田信雄の領有する犬山城を、秀吉に寝返った池田恒興と森長可が占領したことによる。
状況を聞いた家康は、北伊勢から北尾張へ向けて、自軍を急行させた。
そして、かつて岐阜攻めの時、信長が築城した小牧山城に入ったのであった。
小牧山城目指して、池田・森隊が攻めてきたが、徳川武将・酒井忠次らが「羽黒」で退けたのが初戦であった。
事は重要と見た秀吉も大坂から出てきた。小牧山城の北4キロの所の「楽田」というところに本陣を築き、家康と対峙することになったのであった。
もちろん信雄も長島を離れ、家康のいる小牧城に入ったのであった。
そして、両軍いくつかの砦を築き、戦の体制は整ったのであった。
時は、天正12年3月、信長亡きあとの、2年目の春のことであった。
2
いきなり、戦況に触れたが、少し場所について触れる。
愛知と岐阜の境目を、木曽川が流れている。
木曽川の河畔、愛知側に、国宝犬山城がある。
そこから名鉄電車の小牧線で小牧まで南下することができる。
犬山、羽黒、楽田、…そして小牧と、5,6駅で到達する。
このような南北の位置関係である。
両軍、対峙してから何も動かない。
十何日かが過ぎた。
ある日、秀吉陣の軍議が開かれた。
この頃になると、秀吉には威圧感が伴っている。誰も発言はしない。
「こ度の犬山城のこと、恒興殿、長可殿の働き、礼を言うぞ…。しかしな、羽黒で酒井ごときに押し返されたのは、まだ未熟であるがの…」
こう言われては仕方がない。
池田恒興が言う。
「いやはや、面目ござらん。徳川がそこまで来てるとは…。抜かり申した」
「ここは尾張であることを、忘れてはいかんぞ…。徳川殿の本拠地じゃからのう…。それで、晩回の妙案は持っておろうな?」
どんどんと攻めて来る。ここで無しと言ってしまえば終わりである。
上手い具合に恒興にはこの瞬間、閃いた。
「三河衆一同が、目の前にいると云うことは、家康の本城・岡崎城は空っぽであろうと…。そこで、その留守を気付かれずに襲うのでござる」
「敵に気付かれずに、襲えるのか? 10人や20人では無いぞ、何千人が動くんじゃぞ…。無理と思うがのう…」
黙ってしまっては負けである。
ダメだと言われても押さなければならない。
「誘い出すのでござる。半日後に分かっても、我が軍には半日の長が…。一日後なら、尚更でござる」
「なるほどな、それは理屈じゃな…。誰か他に、妙案があるものはいるか?」
「無いと見える。そんなんじゃ勝てんぞ…。長可は? どうじゃ?」
「池田殿の策、見事とお見受けする。それがしに、是非とも、ご先鋒を賜りたく…」
「それがしにも!」「それがしにも!」
と、そこここで声が上がる。
「皆の考えは分かった 明日の朝、作戦を申し渡す。そう心得よ!」
とお開きとなった。
4月になって直ぐのことであった。
3
秀吉軍は4月6日、夜を徹して行動を起こした。
岡崎城へ迂回路を取り、向かったのであった。
先頭から池田恒興隊、森長可隊、堀秀政隊、そして羽柴秀次隊である。
総大将は秀次であることは、云うまでもない。
家康の方はと云うと、翌日7日には情報は入っていたと云う。
農民・町人からも情報が集まっていた。
これは伊賀者を中心とする細作の力である。
家康軍も軍議を開いていた。
「秀吉は、岡崎を攻めると云う…。昨晩、出発したことは間違いない。そこでじゃ…、急ぐ故、考えを言う。」
と、いきなり切り出した。珍しいことである。
「秀吉は出ていない。まだ犬山にいる様子だ…」
「殿、それでは、秀吉に軍をこのまま向けるのが、又とない機会では…?」
「だまらっしゃい!!」
いきなり雷が落ちた。
「そういう作戦もあるにはあるが、儂はそれはしない! 良く聞け! 今は何が大事か?小城とは云え徳川の城を放って置いて、秀吉を撃っても、世間は認めんわ! 家康は部下を見殺しにして、自分の栄達だけを望んだのかって! 今は、徳川の城と家臣を守るのが、第一じゃ!! それが最高の戦略じゃ! 分かったな!」
いつにも無い強い口調で、家康は言い放ったのであった。
ここで、長久手の戦いの舞台を見ておく。
小牧からずっと遠く、東南の方向に三河岡崎がある。
その随分手前には、自動車産業でよく知られる豊田がある。
その更に手前に、以前に「愛・地球博」が開かれた会場がある。
その西が長久手古戦場である。リニアモーターカーの駅もある。
その少し南に、岩崎城がある。ここは日進市。
そして、小牧と長久手の丁度中間あたりに、小幡城がある。
長久手の戦いは、この小牧と岡崎を結ぶライン上で行われた。
4
池田恒興と森長可を先鋒とする秀吉軍、岡崎に向けて進んだ。
長久手を過ぎた。岡崎への奇襲なため、途中の徳川の城・岩崎城を見過ごして行こうとしたが、岩崎城から鉄砲を撃ちかけられた。
無視すれば良いのに、恒興の馬が撃たれたので、怒りのあまり、ついついここで戦端を開いてしまった。
兵の数が、10倍以上も違う。城を落とし、守将も討ちとったが、早朝2時間もの長居をしてしまったという。
岡崎城奇襲軍の意味を理解していない。
先頭はこうであったが、しんがりもしんがりで、秀次隊は白山林と云うところで、休憩していた。
そこを、追い付いた徳川の先頭、榊原康政隊に襲われた。
壊滅状態となった。
秀次は長久手方面へ逃げた。
榊原隊は、その前の堀秀政隊も襲ったが、それは堀隊が退けた。
この戦いの唯一の秀吉軍の勝利であった。
しかし、堀隊はそれ以上は進軍せず、北へ向けて退却したと云う。
同じころ先頭を行く池田隊には秀次隊壊滅の報が入っていた。 そうなればこれ以上の進軍は出来ない。
これも後退した。
後退して、長久手の仏ヶ根まで戻ると、既に家康軍は布陣していた。
恒興、長可も慌てて布陣した。
九千人同士の互角である。
違うのは、徳川軍は総大将、家康、信雄がいると云うこと。
秀吉軍は池田・森隊だけである。
これだけで、どちらが勝つかは、火を見るより明らかであった。
取り組む姿勢、勢いが違う。
違いすぎる。
5
2時間位の対峙があった。
森長可が敵の鉄砲で撃たれ死亡した。
これをきっかけに、もの凄い白兵戦となった。
両軍入り乱れての戦闘は、約2時間も続いたという。
結果、秀吉軍が壊走。死者は二千五百を超えた。
池田恒興、元助親子も戦死した。
それに反して徳川の損害は五百程度であった。
この、仏ヶ根で行われた白昼戦を『長久手の戦い』と云う。
家康の名を天下に高からしめた戦いであった。
以降、『野戦の達人』『街道一の弓取り』と恐れられたことは云うまでもない。
この後、家康は、直ぐに小牧山城へ戻ったと云う。
秀吉はと云うと、岡崎城奇襲隊の敗戦を聞き、救援に犬山楽田の本陣から向かったと云うが、途中で家康が小牧に戻ったことを聞き、楽田に戻ったと云う。
秀吉のこの余裕、何だったのだろうか? 理解に苦しむ。
秀吉はこの後、大坂に帰ってしまった。
その後は、西尾張、岐阜、北伊勢では、小競り合いは続いたというが、大きなことには至っていない。
この戦、家康・信雄に有利に展開していたが、秀吉は別動隊の蒲生氏郷らを動かし、伊勢湾にも水軍を展開するなどして、信雄の伊賀、伊勢の地を脅かした。
そして秀吉は信雄に、伊賀、伊勢半国の割譲と引き換えに本国安堵を条件として講和を迫り、成立したのであった。
その年の十一月、戦いから約八ヶ月後のことであった。
家康はこの講和を聞いて兵を引き上げ、浜松に帰ってしまったと云う。
秀吉は浜松へ使者を送り、家康との講和を試みたが、家康側から、次男・於義丸(結城秀康)を人質として差し出し、和議の形を取ったのであった。
このことで、戦いは終結となった。
その後、秀吉から家康への再三再四の呼び出しがあったが、応じなかったと云う。
この状態が、2年ほども続いたと云う。
それは、家康にも事情があったものと推察される。
大坂で旗を振るのも良いが、東国の現場を治めることの方が大切であるとの判断であろうか?
6
以下、余談である。
京・大坂には、秀吉に臣従する者しかいなくなった。
秀吉の勝手な振る舞いが続いて行くことになる。
秀吉が尾張への滞在中に、紀州の雑賀・根来や四国の長宗我部が、留守中の大坂を襲ったということを理由に、それぞれを攻撃し、滅ぼしたと云う。
この話は、また後日に…。
孤立させ、各個を撃破する。
この戦略がいつまで通用するのだろうか?
東国から家康がじっくりと眺めている。
も一つ余談。
織田信雄は一般に「暗愚の将」と云われている。
今回のように独断専行も多かったと云われるが、決して尖らない。
都度、何らかの決着は付けて、人の間を生きてきた。周りの手は煩わしたが…。
人思いの信長の血を引いているものと思われる。
また、情緒豊かで、能の名手でもあったそうである。
信長の子供の中で、江戸時代に大名として存続したのは、信雄の系統だけと云われている。
数ヶ所の藩を営んだりして幕末を迎えたと云う。
末裔に、フィギュアスケートの織田信成選手がいることは、良く御存じのことであろう。
〔完〕