信長が尾張、美濃二国の国主となった1565年の頃のことである。
京・畿内では室町将軍義輝が幕府の復権を画策して、三好三人衆や松永久秀と対立関係にあった。

三人衆や久秀は義輝を廃し、従弟の義栄を14代将軍に擁立して、思うままに利用しようとした。
一説には、義輝は久秀に殺されたと云われているが、過大なストレスから病気になってしまったので、病没か謀殺かは定かではない。
しかし、これからの話の展開にはあまり関係はないので、深く追求はしない。

その上、三好・松永らは邪魔になった義輝の弟で僧籍にあった義昭を京から追放してしまった。
義昭は一旦、越前の朝倉のところに身を寄せたが、義景が一向に報復に動かないため、細川や光秀の力を借りて、信長への接近を始めたのであった。

泣きつかれたら、嫌と言えないのが信長、答は決まっているが、時期は微妙な時である。
沢彦に相談した。
「じいなら、どうする?」
「お館は、どうしたいのじゃな?」
「う~ん、背後も不安なる故・・・」
「徳川とは堅い契りじゃ…。武田のことかの? 武田も義理堅いお人じゃ。都の準備をされなされ。その間に拙僧が武田とはしっかりとしておいて進ぜよう。お任せあれ…」
餅は餅屋、翌日から武田と精力的に交渉し、準備万端となった。
僧は僧なりに便利なルートがあるものである。

上洛の間際、
「お館、『天下布武』を掲げなされ!都を武で護ることが大事じゃ…。武が天下をお守りすると…」
と、沢彦は提言した。

信長、義昭を15代将軍として奉戴し、上洛を開始したのであった。

岐阜から京に行くには、近江の国を通る。
近江には、六角氏が覇権している。
六角親子と戦った。
あの辺りには、源氏の流れ佐々木氏もいる。
安土一帯で戦った。
信長には勢いがある。
程なく、山の上の六角城、観音寺城を落とした。

この戦いの一部始終の様子が、またたく間に京に伝わった。
三好も松永も戦う前から、信長に恭順したのであった。

義昭を15代足利将軍として擁立した信長は、恩賞も望まず、岐阜に帰還した。
その後、再び三好などが京で策動したが、浅井長政や池田勝正、明智光秀なりが、鎮圧した。
信長も岐阜から2日で駆けつけたが、その時には終わっていた。
京は、しばらく平穏な様子となったのである。

当初は恩を感じていた義昭であったが、しばらくするとその本性を現した。
信長への恩も忘れ、勝手な振る舞いを始めたのであった。
信長は義昭に「殿中御掟」都合16ヶ条を認めさせたが、対立は明らかとなった。

その後信長は、上洛命令にそむく朝倉義景の討伐に家康とともに越前へ向かうが、近江の浅井長政に背後を突かれ、ほうほうの体で逃げ帰った。

将軍義昭は、これを契機に打倒信長の御内書を、武田信玄、毛利輝元、それに叡山や本願寺など多くの武将らに送り、第一次信長包囲網なるものを形成しようとした。

四面楚歌になって、信長の不眠不休の戦いは続く。

懲りずにまた挙兵した三好三人衆を打つべく、信長は摂津に向かったが、その間に、朝倉・浅井・叡山連合軍が近江に侵攻した。
信長は急ぎ戻ったが、間に合わず、重臣森可成、実弟織田信治が討ち取られてしまった。
そして、実弟・信興も長島の本願寺一向一揆衆に殺されてしまった。

あれもこれも対応不可能、進退極まれり。

信長は時の正親町天皇に勅命を仰ぎ、朝倉・浅井と和睦ということに、かろうじてなったのである。
和睦がなった時、信長は、
「天下は朝倉殿が持ちたまえ、我は二度と望み無し」と言ったと云う。

信長は、物事を歯に衣を着せずはっきりとものを云うし、決断も早い。
また潔い人物であった。

その反面、義理人情や部下や家族に対しては思いやりが極めて深かった。
このことはあまり知られていない。

信長の少年時代を振り返ってみる。

信長の母は土田(どた)御前、信長の他にも、信行と云う弟を生んで、品行方正な弟ばかりを可愛がった。
信長は尾張の「うつけもの」と云われ、茶筅髷に荒縄帯をしていて、仲間達と遊び回っていた。
ガキ達の遊びの中で、組織人としての素養が熟成されたものであろう。
鉄砲や剣術などは師について、武人としての鍛錬は欠かさなかったと云われている。

また親に冷たくされた分、自立ができていた。
信行はマザコンに育ってしまったから、武将としての自覚・分別がなく、奉り上げられ、2度も織田家の当主の座を狙い、信長を襲った。
一度目は母・土田御前の嘆願で許したが、2度目はそうもいかなかった。

信長は、兄弟や重臣を殺した敵は、決して許さなかった。
叡山焼き討ちや、少し後にはなるが、長島一向一揆の皆殺しは、その手厚い弔いであると理解すべきであろう。

また、女兄弟や娘たちには、幸せな結婚を望み、あれこれと動いていたと云う。

一年後、近江平定のため、8月半ばに信長は出陣した。
小谷城を攻めたりしながら、西進した。
9月になって三井寺を本陣として、叡山攻撃の準備は整った。
叡山に対し懐柔策を弄していた光秀も、一旦休止、本隊に合流した。

軍議、というより信長の訓示が行われた。
「こ度は、可成と信治の弔いである!」
「一人残らず撃ちとるべし! 夜間は逃げるのもいる故、攻撃は早朝をもって行う!!」
「光秀は、京都側へ回れ!! 逃げて来る者を、殺しながら山へ登れ! 良いな!!」
「猿は、北へ回れ! その他は、坂本の僧坊を攻めて、くそ坊主を殺せ!!」
「邪魔する奴は、誰かれ構わず皆殺しにせよ! 後ろから、内通した輩が、我らの背後を襲うやも知れん。これも良く見ておけ!」

攻撃は、9月12日、日の出と決まった。

実は、このころの叡山は腐っていた。
学問をしない僧が大半となって、坂本の僧房でゴロゴロしていた。
山の堂宇は東塔付近を除いて、かなり寂れていたようである。
坂本を片付ければ、戦いはほぼ終わったものと踏んでいた。

夜のうちに布陣は終わった。
出撃の法螺貝が鳴った。
粛々と僧房に火をつけて行く信長軍の先で、山へ逃げるしかない僧や町人…。
日吉神社目指して、さらに奥宮の八王子山へ向かって逃げた。

信長軍は3万人の大軍であった。
坂本で1万、日吉神社で3千、山に直登する隊5千、残りは秀吉と光秀で北と西の固めである。
完璧な作戦であった。

百戦錬磨の信長軍から見れば、赤子の手をひねる様な戦いではあったが、伏兵に注意しながら、粛々と殺して行った。

昼前には、全軍山上に集結し、高僧、智僧ことごとく首を刎ねたのであった。
そして、堂宇に火を付けた。
次々に燃え上がった。
京や近江から、炎が良く見えた。
北近江の浅井の小谷城からも見えたそうである。

実はこの少し前、叡山の僧たちが京の市中にて、法華宗の寺をことごとく焼いたと云う事件があった。
その行動に、天下を守る者として、はっきりと「ノー」を示したのでもあった。

気になるのは、武田信玄の動きである。
将軍からの親書を受け取った信玄は、信長との盟約との挟間で確執があったが、優先は将軍。
西上を開始し、遠江・三河まで来ていたのであった。

しかし、信長は信玄に構わず上洛した。
信長の上洛に、細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。
信長は火付けなどで義昭をおどし、正親町天皇から和睦の勅命を貰うことに成功した。

ほぼ同時に信玄が死亡した。武田軍は甲斐へ帰り、信長も帰ってしまうと、義昭はまたもや叛旗を翻した。
義昭は宇治の槇島城に立て篭もったが、信長はこれを破り、最終的に将軍を京都から追放した。
1573年7月のことである。元号も信長の奏上で、天正と改められた。

これにて、室町幕府は事実上消滅し、無政府状態の戦国がますます深まった。

その年8月、信長は北近江浅井、越前の朝倉を攻める。
このころになると、朝倉家中は内紛が激しく、内部瓦壊の様相を呈していた。
信長は、一乗谷にて朝倉義景を殲滅して、次に朝倉同盟軍の浅井を小谷城に攻め始めたのであった。

信長はこの浅井は放っておいても良かった。
浅井は朝倉と同盟は結んでいて、信長と同盟も結ぶという優柔不断ぶりではあったが、何といっても妹お市の嫁ぎ先、朝倉が滅んだ今、障害は何もない筈である。
放っておいても、傘下にすり寄って来る筈ではある。

これに口出ししたのは、かの秀吉である。何かの魂胆がある。
「殿、浅井は親父殿と長政殿の意見がいつも違いますゆえ、あのように優柔不断になり申す…。ここで摘んでおかないと、先に必ずや禍根を残すことになりましょうや・・」
「猿、どうせよというのじゃ・・」
「お任せ下され。 猿めが浅井の滅亡と、お市様と姫子お三方を見事救い出して、お見せましょうぞ」
「そうか…。無理するなよ。浅井はな、猿より度胸が座っているからな」
「御意でござる。ついてはお願いがござる。もう一度、お使者をお遣い願わしゅう…」

小谷城、長政は再三再四の信長の降伏勧告も受け入れず、武家としての意地を全うする積りであった。

「あっ、お父上が、来られる」と、茶々の声。
「そんなはずはありません」、戦さで忙しいことを知っている市。
「でも…、お父上だよ…」と、お初。

甲冑を着けた長政が、どかどかっと入ってきた。
娘を順番に抱き上げた。

末娘、お江を抱いたまま、
「市に話がある。 あとの者は下がっていろ」
「下の曲輪にいる父上が、降ったそうじゃ。信長の所にもう行った。わしも行くゆえ、先に娘達を連れて、行っててくれ」
「そのようなことは…」
「先に行け!」
と、言い残して、またどかどかと出て行った。

程なくして、小谷城から2丁の籠が出て行った。

その後の小谷城、秀吉軍の激しい攻めにあった。
親父久政は既に自害しており、長政も城とともに自害した。
長男万福丸は捉えられ、秀吉からひどい目にあわされ、殺されたと云う。

お市とその娘達、一旦信長の陣に送られた。
「市、儂を恨んでもいいが、叛旗は朝倉・浅井の方だ! 放っておくと、市や子はもっと悲惨なことになっておるわ!」

市たちはその後、尾張の信長の弟、信包の屋敷に落ち着いた。

第一次信長包囲網は瓦解した。
これ以降、筆頭家老、柴田勝家が北近江から越前、北陸を護って行くことになったが、一向宗や、越後方面からの上杉の脅威があることは否めない。

この年9月、信長は抵抗を続ける長島一向宗一揆衆の征伐に向かった。
長島周辺の城は落としたが、一揆衆の抵抗激しく、長期化する様相を呈したので、軍を引いた。
しかし撤退も困難を極め、林通政が闘死してしまった。

翌年、再度長島に向かった。
3万の大軍と、九鬼・志摩水軍の海からの封鎖で、兵糧に欠乏をきたした一揆衆は降伏し、船で大坂方面に退去しようとした。
しかし、信長はこれを許さず信長は鉄砲攻撃をした。
一揆側も負けてはいない。応酬した。

その時、信長の兄、信広、弟・秀成や多くの将が打たれた。
これは絶対に許すわけにはいかない。
長島を柵で包囲し、ことごとく焼いた。
門徒衆、2万人を全滅させ、兄、弟や軍の将への弔いとした。

1574年9月のことであった。
これにて、信長の伊勢方面の憂いは無くなった。
〔完〕