1582年6月2日、堺見物を終え、家康は京都経由で、信長の安土への帰路途中であった。
生駒山の西麓、四条畷辺りに差し掛かった頃、本能寺にて信長襲撃され自害との報を受けとった。

家康は供の者50名足らずの身軽な小旅行途中ゆえ、なんともなら無い。
『家康は信長の後追い自害』と忠誠心を見せた密使を放った後、三河目指して一目散に帰ることにした。

さてルートをどうするか?
いつなんどき信長を襲った手の者や、はたまた家康の首級を挙げ、それを手柄に天下にのし上がろうとする大小武将の手合いが押し寄せるかも知れない。

服部半蔵に手招きをして、
「伊賀…」
半蔵は、
「御意」
とだけ言って、傍らの馬に飛び乗り駆け出した。

生駒山の辺りから伊賀まで、現在は車で一時間。
当時も同じである。
一刻もあれば道中に、伊賀者の配備は可能と踏んだのであった。

家康一行は津田の人家の間を抜けて生駒の山裾で山に沿って方向を東へ、穂谷川に沿った信楽街道へ踏み込んだのであった。

今にも雨が降りそうな梅雨空に、黙々と粛々と進んだのであった。
途中、尊延寺集落の来雲寺にて湯茶が振舞われ、ホット一息した。
雨がポツリポツリと、寺紫陽花を濡らしていた。

家康、ここで気懸かりは、武田の遺臣穴山信君(梅雪)。
信長の押さえがなくなった今、どう転ぶか分からないと疑心暗鬼となった。
「梅雪翁に頼みがある。貴殿は武田の重鎮。山野の戦いには慣れておる。先鋒を引き受けてくれんかのう」

信君は家康から大役を仰せつかり意気揚々、しかし信君の手勢は10名ばかり。
多少の不安もあったが、ここは徳川家を守るためと決断した信君は手勢をまとめ、豊富な路銀も分掌して、田辺の普賢寺に向け、先に出発したのであった。

「ワシらも行こうかのゥ~」
家康本隊、信君の道とは違う北に向いて、甘南備山の麓を目指したのであったが、信君は知る由もなかった。

雨はいよいよ本降りとなった。
忠勝(本多)は何故かそわそわと落ち着かない様子であった。
その他のものは臨戦の構えで、寡黙になって山越道を歩いたのであった。

その後は川を越えるという大仕事が待っている。
伊賀越え道はどこを通っても、木津川畔の草内の渡しで、舟に頼らなければいけない。
二手に分かれた家康一行はそれぞれこの渡渉地点を目指したのであった。

甘南備山も無事通り抜け、酬恩庵(一休寺)に無事到着した。

「ほう、一休禅師の隠居所か?」
「かの御仁の智慧には預かりたいもんじゃ」
禅師の墓所に手を合わせ、禅師が友とした庭を一行が眺めている時、
「本多様…」
と寺小姓の声がした。

本多が、あたふたと駆けてゆく。
そして、すぐ帰ってきて、家康の耳元で「…」
家康は「ふん…」と一言。

皆に向かって、
「渡し舟も、動き始めたようじゃ…」
「さあ、雨もあがったようじゃ。行こうかの…」
一行は、もう一度禅師の墓所に手を合わせ、木津川べりに向け、今度は勢い良く動き始めたのであった。

木津川土手が見える所まで来た。
何やら騒がしい。

家康は小姓二人に手招きし、
「何か、祭りでもあるのか? 見て参れ!」
と言い放って、渡し目指し進んだ。

小姓が帰って来て、言うことには、
「鷹狩りに来ていた武将が百姓の一揆で殺された、との様子でござる。地元の百姓ではなしに、山賊の化身かとも、言っているようでござる」
「そうか、それは気の毒に…。きっと名のある武将じゃな」
と、金子を取り出して、
「通りがかったのも、何かの縁じゃ。手厚く葬ってやるが良かろう」
と言い、
「これを手渡してくれ。」
と小姓に預けた。、
村人たちが一年位、何もせずに暮らして行ける程の金子を手渡したのであった。

後日譚ではあるが、村人たちは、その一行の亡きがらを村の墓地の中心に手厚く葬ったのであった。

数日して、墓標が届けられた。何やら書いてあった。
偉い武将のような名であった。

木津川の草内の渡しといっても、当時は小舟が一艘と、多少の人夫がいるのみである。
荷駄と一行を渡し終えるのには、相当な時間が掛かる筈である。

助け舟とはよく言ったもので、この先の宇治田原の山口城から来た屈強な男衆が、川べりで待っていてくれた。

百姓姿で、すわっ一揆か? と一瞬ひるんだ。
隠し持っていた山口家の旗を立てたこの家紋、家康は知らなかったが、酒井は知っていた。
さすがである。
もう説明する必要もない。
半蔵が城主山口秀康に掛け合っての手配である。

これだけの人数がいるので、渡し作業は早い。
小半時もすれば全て完了した。
山口城目指して、一行は案内された。

途中の城陽の山道で、細い川の向こうでガサゴソ音に加えて声らしきものもする。
知らん顔して通り過ぎようとしたが、突如一行の前に黒い影が…。

家臣は流石である。
影が早いか、隠し持っている刀に手を掛けるのが速いか?
一瞬で臨戦体制が整った。

なんと道の真中の黒い影、この辺りの山猿の偵察隊であった。
サルは一行を一瞥しただけで、元の藪の中へ…。

「サルはのう…。 大事にしなければのう…。」
(陰の声:サルとは秀吉のことに引っ掛けている)

藪の向こうに集落が見えて来た。
郷の口、山口城下である。

一方、家康一行を迎える山口城、台所はてんてこ舞い。
城主秀康は悩んでいた。
ご馳走は出したいが、戦時中ゆえ一括されることは分かっている。

しかし知恵が働く秀康、策を弄した。
白米入りの麦飯は、握った。
後は、体力回復のうなぎである。宇治川特産の川鰻である。
「当地特産の煎餅とでもしておくか? デザートなら良かろう…」

さて家康一行、城内で握り飯の接待を受けることになった。
秀康「戦時中ゆえ、粗末なモノばかりで…」
家康「かたじけないのう…。気まぐれ旅で迷惑かけるのう…」

「当地特産の煎餅でございまする。お立ちより記念にご賞味を!」
と、一同の前に指し出した。

「これが、煎餅か? いつも食しておるのか? 美味いのう…」
「…。 たまりたっぷりでございまする。千人の兵(センベイ)を食うという云われがありまして、当地では戦勝祈願で…」
「そうか、馳走になったのう…」

山口城の兵に守られ、宇治田原の山越え道に挑む家康一行であった。
山道は殊のほか険しく、ぬかるんだ
山間の人家の見える場所に寺院があった。
遍照院という名であった。
この寺で湯茶の接待を受け、少しゆっくりした。

「御坊、ここの茶はことのほか美味いのう…。何か秘訣でもおありか?」
「ご隠居の旅は、よっぽどの急ぎ旅だったものと思われまするなァ。沿道、お茶の畑をご覧になる余裕もなかったようですなァ…。この辺りは、宇治茶の産地…。山間の茶は養分も豊富で、宇治茶の中の宇治茶でございまする。新茶にご満足いただけたようですな…。ようお参りなされました…」

家康一行、住職に門前まで送られた。
「ご坊、世話になったのう。商いの途中にはまた寄らせてもらう。健吾に暮らせよ。」

そして目を向けると、なんと山間には見事な茶畑が広がっているではないか。
ここまで何と余裕のなかったことか、皆で顔を見合わせ、自然に笑いが込上げてきたのであった。

「さあ、参ろうかの…」

もう安心とは思うが、これから越えるのは、山城と甲賀の境の裏白峠、まだまだ安心できない。
しかしながら、家康には、全てが読めていた。
山口城を出た辺りから、半蔵の手のものが、守ってくれていることを…。

家来達にばらしてしまうと、こいつらは、すぐ気を許してしまう単純なやつばかり…。
まだま気が抜けない。

裏白峠、現在は国道307号線、国道とは言え、少し前までは離合困難な隘路の峠道、一気に登り詰め、一気に下り降りた。

そこは甲賀の国、朝宮の里、なんと一面の茶畑が…。

「いい眺めじゃのう…。茶摘の娘子も、沢山出ておるのう…」
梅雨の止み間、いっせいに、畑仕事の風景であった。

「ワシの隠居所は、こういう所にするか」
苦境を抜けた喜びから、家康には天国のような光景に見えたことであろう。

さて伊賀越え、朝宮で半蔵と再会。
前後左右を固めて、多羅尾氏の城、小川城まで向かうのであった。

この伊賀越え、小川城以降、伊勢の白子の港まで、家康を守りたいという武将が次々に馳せ参じた。
しかし、家康の性格を知ってか、それとなく遠巻きに周囲を固めるだけであった。
港に着いた頃には、その数、眼を見張るものになっていたとのことである。

この苦境の伊賀越えで、家臣の振る舞いをつぶさに見た家康は、徳川家の組織体制の大枠を、固めたようである。

伊賀越え、長い長い2日間の旅であった。

「山路越え ゆかし香りの お茶の里」

〔完〕