宗教的な儀式には護摩火が付きものであるが、堂宇まで火に包んでしまうのは、それは行き過ぎである。

比叡山延暦寺、元々は京の北東の王城鎮護であったが、時代が進むに連れて広大な知行地を支配し、それを護る武力を持ち、さながら独立国家のようになったのは、至極当然のことである。

しかし、世を治めようとする朝廷や室町幕府、戦国武将たちにとっては、時には大きな敵となって立ちはだかり、戦いを余儀なくされたのであった。

後白河法皇は、思い通りにならないものは、「鴨川の水、サイコロの目、山法師」
と云ったが、その山法師とは、叡山のことを指している。

叡山延暦寺をめぐっては、都合3度の炎上事件があった。
1度目は、室町将軍6代足利義教(よしのり)の時、1430年の頃である。
2度目は、これも室町将軍12代足利義稙(よしたね)の入京をめぐってのこと1499年である。

3度目は、良く御存じ信長軍による叡山攻め、今回の話である。
1571年9月のことであった。

籤(くじ)で将軍に当選したと云われる6代室町将軍義教は元は天台座主であり、当初は叡山もすり寄って来たが、それが面倒なので反対に五山とその禅僧を重用した。
それが叡山と対立することになったのである。

更に鎌倉公方の足利持氏が籤将軍に不満を持ち、叡山にて義教を呪詛していることが明らかになり、叡山に大軍を出し、日吉神社から攻め登って、僧侶たちを根本中堂まで追いつめた。

これを悲観した僧侶たちは根本中堂に火を掛け、それが全山に延焼した。

それ以来、洛中で叡山のことを話すことは禁止とされ、違反者は討ち首となったとのことである。

しかし、8年後、義教が暗殺されると、叡山は再び武装を始めたとのことであった。
それから50年後、亡命中の12代将軍義稙の入京に叡山が手を貸したとして怒った管領細川政元が叡山を攻撃して、堂宇を焼きつくした。
これが2度目の叡山炎上である。

叡山は洛外でも適度に離れている大寺院であるため、時の権力に抗して行脚する人達の隠れ家・協力者としては最適であり、常に反権力になったのも、この叡山延暦寺の宿命だったのかも知れない。
逆に時の権力者から見ると、この叡山は最大の邪魔者であって、「叡山を制するものは、都を制する」ということにもなっていたのである。

前置きが長くなった。
信長の時代へと急ぐが、その前に大切なことに触れておく。
1520年頃、京では、法華宗(日蓮宗)信仰が町衆に浸透していて、勢いを振るっていた。

一向宗が入京するという噂が京の町に広がり、時の管領細川晴元と法華宗が結託して、山科にあった本願寺を焼き払ってしまった。
その後、法華宗は京で管領を無視し、好き放題に横暴を極めたと云う。

これに怒った叡山の僧達は京の町に下りて、日蓮宗寺院に対して、天台宗に改宗するよう迫ったが、従わないため、晴元や六角氏を誘い、武力を背景に、21本山寺院を全て焼き払ってしまったと云う。

京の町は、応仁の乱以上の大火に見舞われた。
法華宗は京から追放されたが、数年して帰還を許され、
15本山が再建されたと云う。
天文法華の乱と云い、叡山僧兵の恐ろしさをまの当たりに見た思いであった。

第1次信長包囲網、信長は文字通りの「四面楚歌」の状態であった。近江の国北部には、朝倉・浅井連合軍が、南部には六角が、またその後ろには上杉・武田が控えている。

伊勢北部には本願寺勢力があり、大坂方面には本願寺本家と三好三人衆が、大和からは松永勢が取り囲んでいる。

1571年の正月、岐阜城での慶賀の礼もそこそこに、早速軍議が開かれた。
「のう細川殿、まずは近江南部の平定が肝要かと思うが、どうじゃ?」
「近江の南部は京への進路、これの確保は何を置いても大事でござる。
朝倉・浅井は去年も叡山へ逃げ込み陣を張った。
叡山をおとなしくさせておくのが、近道と存ずる」

「光秀はどうじゃ?」
「細川殿の言わっしゃる通りでござる。
叡山さえ、我が軍にお味方してくれれば・・。
しばらくの時をいただければ、この光秀めが叡山を手に入れて見せましょうぞ」

「光秀は、悠長だのう・・・。そんな時間は無いぞ!!
三好や松永が京を狙っておる。その前に、頭上の憂いを除いておくのが肝要じゃ」

「叡山懐柔か?攻撃か?
ことは急を要するぞ・・!
光秀は、坂本でくそ坊主どもを懐柔して見ろ!
他の者は、攻撃の準備!!
抜かるなよ・・・!!
猿、お前は、近江の南北を遮断せい!

陣を張ってな・・・。
ややこしいものは斬り捨てて良いぞ・・。
長秀、お前は佐和山城を落とせ!
1ヶ月以内にな!」
信長包囲網打破、先ず近江平定からスタートの方針に決定された。
決まったら直ぐ動くのが信長軍の特長である。

あくる日、光秀、秀吉、長秀、勝家の指揮官達、早速持ち場へ急いだのであった。

長秀は佐和山城を予定通り2月に落とした。
秀吉も姉川辺りで陣を敷いて、南北の陸路、水路を遮断していた。
一向宗と浅井長政が結託して南下を試みたが、秀吉軍に粉砕された。

いよいよ8月半ば信長の出陣となった。
小谷城を攻めたりしながら、西進した。

9月になって三井寺を本陣として、攻撃の準備は整った。
懐柔策を弄していた光秀は一旦休止、本隊に合流した。

軍議が行われた。
「一人残らず撃ちとるべし。
夜間は逃げるのもいる故、攻撃は早朝をもって行う!!
光秀は京都側へ回れ!!

逃げて来る者を、殺しながら山へ登れ! 良いな!!
猿は、北へ回れ!

その他の者はは坂本の僧坊を攻めて、くそ坊主を殺せ!!
邪魔する奴は、誰かれ構わず皆殺しにせよ!
後ろから、内通した輩が、我らの背後を襲うやも知れん。
これも良く見ておけ!」
攻撃は、9月12日、日の出と決まった。

実は、このころの叡山は腐っていた。
学問をしない僧が大半である。
僧達は坂本の僧房でゴロゴロしていた。

山の堂宇は東塔付近を除いて、かなり寂れていたようである。
坂本を片付ければ、戦いはほぼ終わったものと踏んでいた。
夜のうちに布陣は終わった。

出撃の法螺貝が鳴った。
粛々と、僧房に火をつけて行く信長軍の先で、山へ逃げるしかない僧や町人。
日吉神社目指して、さらに奥宮の八王子山へ向かって逃げた。

信長軍は3万人の大軍であった。
坂本で1万、日吉神社で3千、山に直登する隊5千、残りは秀吉と光秀で
北と西の固めである。

完璧な作戦であった。百戦錬磨の信長軍から見れば、赤子の手をひねる様な戦いではあったが、伏兵に注意しながら、粛々と殺して行った。

秀吉軍6000は北の仰木口から登った。
途中(地名である)で関所を設け、逃げて来る僧を検分したそうである。
金目の物を差し出した僧は逃がしてやり、持たないものは首を刎ねたそうである。
何とも実利的な振る舞いである。

一方、光秀軍6千は京都側から登った。
一乗寺からの雲母(きらら)坂である。
光秀は全軍に「おとなしい猿は殺すな」と号令していた。
誰ひとり僧を殺さなかったようである。

昼前には全軍山上に集結し、高僧、智僧ことごとく首を刎ねたのであった。
そして堂宇に火を掛けた。
次々に燃え上がった。
京や近江から、炎が良く見えた。
北近江の浅井の小谷城からも見えたそうである。

焼けなかった堂宇が一つある 『瑠璃堂』という。
京都から上がって来た光秀はこの横の学房に陣を張っていたが、そのままになってしまったと云う。
当時を知っている唯一の御堂である。

戦い?は終わった。
事後の処理を光秀に任せ、信長はあくる日朝、若干の馬廻りを揃え、上洛していった。

時の正親町(おおぎまち)天皇も朝廷もこの信長の所業には、一言の発言も見解もなかったようである。
叡山に如何に手を焼いていたか、良く理解できる。
そして、信長には恐怖を抱いたと思われる。

しかし、他の戦国諸侯達は信長の所業に最大級の非難をした。
自らが出来なかったことを、為し得た者への、単なる嫉みと自らの正当性を主張している負け犬の遠吠えの如くに感じられる。

その後、叡山の寺領は信長に没収され光秀始め数名の部下に分け与えられた。

光秀は統治のために坂本に築城し、その後は良く治め、町衆に信頼された。
機を捉え敏に動く信長の戦いがこの先10年、展開されて行くのであった。

最後に余談、叡山の不滅の法灯、開山以来、灯っている。
何度も、焼き討ちに遭ったのに、どうして不滅なのか?
叡山の説明では、山形の山寺、芭蕉の
「静かさや 岩に滲みいる 蝉の声」
で知られる立石寺に、万が一に備えて、分灯されていたということであった。

〔完〕