淀殿、幼名は「茶々」、北近江の小谷城で浅井長政の子として生まれた。
母は、信長の妹、戦国一の美女と云われたお市の方である。

妹に、年子の「お初」、そして生まれたばかりの「お江」がいて、絵本に出てくるような、ほほえましい暮らしの毎日であった。

戦国の真っ只中、信長が天下布武を唱えて畿内周辺の豪族を抑えに掛かり、丁度、越前の朝倉氏を一乗谷にて殲滅して、次に朝倉同盟軍の浅井氏を小谷城に攻め始めた。

信長はこの浅井は放っておいても良かった。
浅井は朝倉と同盟は結んでいたが、信長と同盟も結ぶという優柔不断ぶりではあった。
しかし何といっても妹お市の嫁ぎ先、朝倉が滅んだ今、障害は何もなかった。

これに口出ししたのは秀吉である。
「殿、浅井は親父殿と長政殿の意見がいつも違いますゆえ、あのように優柔不断になり申す…。ここで摘んでおかないと、先に必ずや禍根を残すことになりましょうや…」
「猿、どうせよというのじゃ…」
「お任せ下され。猿めが浅井の滅亡と、お市様と姫子お三方を見事救い出してお見せましょうぞ」
「そうか…。無理するなよ。浅井はな…猿より度胸が座っているからな」
「御意でござる。つきましてはお願いがござる。もう一度、お使者を、お遣い願わしゅう…」

小谷城、長政は再三再四の信長の降伏勧告も受け入れず、武家としての、意地を全うする積りであった。

「あっ、お父上が、来られる」と、茶々の声。
「そんなはずはありません」
戦さで忙しいことを知っている市、
「でも…、お父上だよ」

甲冑を着けた長政が、どかどかっと入ってきた。
娘を順番に抱き上げた。
お江を抱いたまま、
「市に話がある。後のものは下がっていろ。下の曲輪にいる父上が、降ったそうじゃ 信長の所にもう行った。儂も行くゆえ、先に娘達を連れて行っててくれ」
「そのようなことは…」
「先に行け…」
と言い残して、またどかどかと出て行った。

程なくして、小谷城から2丁の籠が出て行った。

その後の小谷城、秀吉軍の激しい攻めに合った。
親父久政は既に自害しており、長政も城とともに自害した。
長男万福丸は捉えられ、秀吉からひどい目に合わされ、殺された。

お市とその娘達、一旦信長の陣に送られたものの、その後、尾張の信長の弟、信包の屋敷に落ち着いた。

尾張では、信長の末の弟の長益(有楽斎)のところで、父の帰りを待ちわびながらも、武家の娘としての躾もされ、大きくなっていった。

余談であるが、東京の有楽町、この織田有楽斎の屋敷があったことから、その名前が付けられたという由来がある。
この有楽斎、武勇も優れているが、風流人・茶人でもあり、バランス感覚に優れた人物で、養育係にはもってこいである。

数年経った。
市は信長の筆頭家老、柴田勝家に輿入れし、3人の娘達も付いて行った。
越前北ノ庄というところである。

武家・領主の娘、天下人の姪として、不自由なく過ごしていたが、それも、伯父信長が殺されたことにより、身辺が騒がしく危うくなっていた。
もう、戦国時代を生き抜いていく感覚は、十分身についていたので、良く分かった。

「敵は誰じゃ?」
と、問うた。
「猿…」
「またか、あの調子者めが…、今度は、天下でも取るつもりか?」
「信孝殿と我らの殿を、亡き者にせんと…」
「姫、もうお出かけの頃合でござる。達者で過ごされよ!」

再び、落ち延びることになった。
城外へ出て、母がいないことに気付いた。
お江が泣いた。
そして皆、泣きながら館を後にした。

2度目の落城、姫たちの心は、いかばかりのものであったろうか?

今度は、秀吉の庇護を受けることになった。
しかし幸いなことに、有楽斎伯父が、今度も一緒にいてくれた。

状況は、めまぐるしく変化していた。
この間、妹達に結婚話が持ち上がり、お初は浅井の主家の京極高次の正室へ、お江は嫁いだものの、別れたりで、結局、徳川秀忠の正室へ。

茶々は、秀吉の側室に納まっていった。

この3姉妹、ずっと一緒にいたせいか、何をするにも一緒で、仲が良く、嫁いでからも音信を絶やすことは無かった。

そのうち茶々は秀吉の子を身ごもった。
秀吉は茶々のために別邸を用意した。

伏見からでも、大坂からでも、舟で行けるところである。
以前の淀の砦の跡地に屋敷を整備し、茶々とわが子を住まわせた。
淀城と名づけられ、以来、茶々は城主となり淀殿と呼ばれるようになった。

淀殿は子供がいるので、あまり動けなかったが、次女のお初が、3姉妹の連絡役を務めたのであった。

淀の1人目の子は、幼くして亡くなった 捨、鶴松という。

秀吉の朝鮮の役の折り、2人目が生まれた。
御拾い、秀頼と名付けられ、秀吉の跡目とされた。

秀吉の子であるかどうかという、巷雀のさえずりがある。
出生届も戸籍もあるわけではない。
秀吉が実子と言ったら、実子である。

さて秀吉、戦いで疲れたのか、絶頂期に黄泉の国への旅人となってしまった。
皆で悲しんだが、いつまでも浸っている時ではない。

秀吉の統治機構は五大老・五奉行の、一応、集団指導体制を取っている。

覇を取りたい事務官の三成と、現場の戦闘官、家康の確執があった。

家康は次は俺の番と思って、そのチャンスを窺っていた。
しかし先に挙兵はしない。
三成の挙兵を待っている。
フェイントを噛ませた。
豊臣軍として、会津上杉の討伐に向かった。

読み通り、三成は挙兵した。
家康討伐の兵である。
おまけに家康の居城、伏見城を殲滅してくれた。
家康、おもむろに西ヘ向かった。

さて浅井三姉妹、肝玉は座っている。

淀は大坂城にいた金吾中納言、小早川秀秋に云い含めた。
お江は、夫、秀忠に…。
お初も、夫、京極高次に…。

東に急ぐ、西の部隊が大津城の関門で足止めを食った。
大津から先に行けない。
京極の奮戦で、関ヶ原へ行けない西の部隊が少なからずいた。

秀忠は、中山道を…。
会津を牽制しながらだからやむを得ない。
ただ、遅いということで、家康から叱責を受けた。
しかし、これは、家康の作戦でもあった。
三成に、家康軍は弱小、組み易しという印象を与えるためでもあった。

関ヶ原の戦いは、頃合を見た秀秋の動きで決着した。

三姉妹は久しぶりに、ほくそ笑んだ。
それぞれの、顔つきを思い出しながら…。
一緒にいれば、ハイタッチでもするところである。

関ヶ原の後、淀は秀吉の供養をしていなかったことに気が付いた。
家康からの勧めもあり、秀吉が破壊した畿内の寺社ヘ、寄進をすることにした。

多くの寺社に寄進した。
新しい寺院も建てたりした。

その中に、現在の京都の豊国神社のところに寄進した方広寺がある。
ここの釣鐘に書かれた銘文に、いちゃもんがついた。

『国家安康』、『君臣豊楽』
家康の文字を分断し、豊臣の繁栄を願うものであると…。

家康への弁明に、片桐且元が駿府へ走った。
無理難題を押し付けられてきた。
「秀頼の参勤交代、淀の人質、…」

淀に報告したが、到底受け入れられない。

大蔵卿が駿府へ走った。
報告は、
「秀頼はそのままで、何もない」

この違い、これは家康のはかりごとであった。

淀は、
「片桐、信用ならじ…」
と、城を追い出した。

家康から見れば、家康の使者片桐を追い出したということで、開戦の口実は十分出来たことになったのである。

追いだしてから、淀は「しまった」と思った。
家康の罠に嵌まったと…。

片桐に何度も何度も、思い直せとの手紙を書いた。
『わらわが、悪かった』、とも書いた。
しかし返事はなく、片桐は自城茨木城に閉じこもりをしてしまった。

片桐は片桐で、大坂に冷たくされたというポーズを、家康に取った積りであった。

この片桐且元、実は、かつては浅井長政の家来であったことも、淀に間違いを起こさせた原因であった。

いよいよ、大坂城攻めへと、事態は動いて行くのであった。

大坂方には、全国から浪人10万人が、集まっていた。
関が原の敗残やら、徳川から見放された多くの武家集団である。

淀は、この負け戦しか知らない浪人集団、戦もしたことのない官僚達に、
「豊家の戦いじゃ。ゆめ見苦しき真似はせぬよう…」
と、城内を説いて回った。

大坂の陣は、浪人対征夷大将軍、徳川家康、秀忠。
戦いの口実は何も要らないのだが、そこは律儀な家康、きっちりと口実を付けた。

先の家康の使いになってしまった片桐、この時が来るのを待っていた。
大坂城を知り尽くしている片桐、先鋒として、嬉々家康隊に参戦した。

大坂・浪人連合の、真田幸村隊、果敢に戦った。
真田には攻め手・家康軍もてこずった。

勝負は、大砲が決めた。

片桐の情報で淀のいる辺りに、大砲を集中した。
当った、待女4~5人が、即死であった。
こうなったら、恐怖心がもたげてくる淀、
「和議じゃ、和議じゃ…。 有楽斎殿、力になってたもれ…」
「御意でござる…」

この和議には、妹、お初、常高院が動いた。
もちろん、秀忠室、お江の力もあった。

和議が成立した。
『本丸を残し、内堀から外側を破壊すること』
になった。

淀は、これで全て終わった積りであった。
「3度目の落城は避けられた」

妹のように仏門に入り、余生を送る積りであった。

暫くは落ち着いた日々が続いた。
大坂城の周りでは、和議に基づいた、大工事が行われていた。
子供の頃からの過ぎし日を思い出しながら、しみしみと眺めていた。

しかし、これで終わらないのは、世の習いである。
何故か?

大坂城内には、10万人の浪人達がいた。
このまま終われば、一斉に職(食)を失う。

社会経済学の法則が働き出した。
浪人たちが、騒ぎ出した。
「豊臣は弱腰か? 今こそ決戦なり」
解雇嫌さのあまりの、無責任な人たちである。
当たり前であるが、自分の生活しか考えていない。

大野治長や秀頼の耳に届くような大きな渦になっていた。
秀頼までが決戦を叫ぶようになっていた。

淀はもう興味は無かった。
もう何もしなかった。

「大坂城内では、戦気盛んでございます…」
「このままでは、大坂や京はどうなることやら…」
と、注進した者がいる。

何度も出てくる茨木城主、片桐且元である。今や徳川の外交官になっている。

話は家康に移る。
家康は、この手の身勝手浪人は大嫌いである。
1人残らず殲滅してやろうと考えていた。

大坂城にいる、浅井の係累は、助けようと思っていた。
なぜなら、浅井長政は戦国の世に「義」ということを初めて見せて、散っていった武将だった。
家康好みであったからである。

秀頼は、助けることはできない。
仮に、淀と一緒に投降して来たら、その時は最悪である。
家康の前に引っ張り出して、首を自ら刎ねなければならない。
豊臣家は主家であった。
主殺しということで大きな汚点となる。
徳川の存続が危うくなる。
ここまで考えていた。

秀頼が打って出て、殺されることを願っていた。
これで全て上手く行くと考えていた。

いよいよ最後の戦国、夏の陣が始まった。

大坂隊は勇猛果敢な真田隊を、くさびの先頭にして、家康本陣めがけて突撃してくるという、戦の繰り返しであった。
こんな戦いは長くは続かない。
幸村が憤死した。

これを境に、大坂城包囲網が急速に狭められていった。

秀頼は出てこない。
最後まで出てこない。
大坂方は、秀頼が手元にいる限り何とかなると、甘い考えを抱いていた。

城内からは、既に火の手が上がっていた。

家康の手元には、お初・お江からの、淀助命の嘆願が山ほど来ていた。

そこに、秀忠の娘、お江の娘、秀頼の妻、千姫が城から出てきた。
家康の顔を見るなり、
「淀殿を…」
「秀頼もいるのか?」
「はい…」
「下がって、休め」

「片桐! お主、淀のいるところ分かっておろう」
「鉄砲を打ち込め! じゃがな、一時で良かろう。脅かすだけじゃ…」
「御意…」

程なく、天守閣の直下、山里曲輪に銃弾が打ち込まれた。

淀のいよいよ最期の時、父、母、妹達の顔が浮かんだ。
「父も、母も、このようだったのか…」
と、思って涙が出てきた。

後は、妹達に託すのみであった。
見事な、自刃だったと云われる。

天守閣から炎が降って、曲輪が燃え上がった。

「三たびめの  炎よ届け  天高く 父母とまみえる 大坂の空」

〔完〕