越前の国から北近江の木ノ本や長浜に出る場合、大きく2つのルートがある。

最短は越前蕎麦の美味い今庄からストレートに南下する北国街道、途中難所の栃の木峠、椿坂峠を越える山越え道である。
雪があると使いにくい。

もう一つは一旦、日本海・敦賀に出て、敦賀から琵琶湖に至る迂回路である。
敦賀街道・塩津街道という。
現在の国道8号線に沿った道である。
しかしこの道は、行軍は比較的楽ではあるが、あまり勧められない。
迂回している間に、ストレートに本国に攻め込まれる危険があるからである。

越前・加賀に本拠を置く柴田勝家にとっては、もう何度となく行き来した戦の道である。
尾張生まれの勝家であるが、越前に長く居るので当地の出身と思いがちである。

織田信長が本能寺で暗殺集団の手より自害に追い込まれて、そのすぐ後、織田家の跡目決定のために、尾張清州城にて清州会議が開催された。

筆頭家老の柴田勝家が先ず口を開く。
「跡目は筋から行くと、信孝様がしかるべきじゃと思われるが…。信孝様は山崎の戦にて明智軍を壊走させた総大将でござる。お館様のやりようにも近く、またその資質を持っておられるでのう…」

勝家は秀吉の賛同が得られるものと、先ず発言した。
一同、「うんうん」と大きく頷くばかりで、相の声はない。
皆は、もうこの時点で秀吉がどう動くかが見えないうちは、軽挙は禁物と心に決めていた。

「あいや各々方、暫らく待たれい」
と秀吉は消えた。
皆、ざわついてる中に、秀吉が信長の孫を抱きかかえ、スルスルと上座へ座った。
「皆、信忠様のことを、もはやお忘れ申されたか? 我らの殿は信長様ではあるが、既に信忠様が家督を引き継いでなさる。織田家の当主は信忠様である。そのお子、この三法師様がお継ぎになるのが、至極当たり前じゃが…」

これも皆は「うんうん」と頷くが、柴田・滝川は苦い顔で、目をそらす…。

「柴田殿、いかがかな?」
そう言われても、すぐに返事できる筈もない。

暫らくして、
「羽柴殿の申されること、その通りじゃ」
と、丹羽長秀が支持する。

「しかし、こ度の戦は信孝様の武功によるものじゃ…。儂もご一緒仕りたかったが、何せ上杉のことがある故…。ここは信孝様として、三法師様にはご元服の折、跡目をお返しするのが筋と存ずるが…」
と柴田も負けじと言った。

今度は、皆が頷かない。
前田利家、金森長近らが、
「柴田殿の言わしゃることは、ごもっともじゃ…」
「そのこと、誠に理に叶ってござる」
と言う。

「まだまだ戦は続く故、跡目様を決めても、ご後見人が要るであろう…。それは、こ度の武功の羽柴殿が適任と存ずるが…」
と池田忠興や中川清秀が口を揃えて言う。

もうこうなると平行線を辿るのみ。
勝家は席を立った。
続いて何人かが…。
席を立てば負けである。

このようにして、秀吉の織田家後見人と三法師の跡目が決定されたが、織田家中は2つに割れてしまったのであった。

織田家総代表となり勢いを得た秀吉、一ヶ月後に、京の大徳寺に信長公菩提の総見院を建て、大々的に葬儀を行った。

しかし収まらないのは柴田勝家、織田信孝、それに与する武将達…。
そして秀吉の身勝手な振舞に政権収奪の恐れを抱いたのであった。

こうなれば、この時代は戦である。
勝家は織田家の跡目復活を目指した戦争へ…。
秀吉は自らに抗う織田家重臣を亡きものにして、自分の天下に邪魔されないための戦争へと、進んで行くのであった。

しばらくの間は、勝家、秀吉とも、各武将の取り込み調略に専念した爲、静かであった。
秀吉は織田家の武将の取り込みに力を注ぎ、一方勝家は、家康を始め、毛利、雑賀、長宗我部など外部勢力と盟約を結ぶことに力を注いだ。
前哨戦の結果は、秀吉方が少し有利に展開したようであった。

越前には雪の季節が訪れることは、致し方ない。
11月になって、勝家は秀吉の天王山城に和睦の使者を遣わした。
前田利家、金森長近、不破勝光の三将である。

「まあ、仕方ない…。応ずると伝えよ」
というのが秀吉の回答であったが、おまけが付いていた。
「ところで、各々方…、今日はゆっくり休まれよ…」
いつもの手である。

前田利家とは下っ端当時からの近所付き合い。
子のない秀吉は利家の娘を養女に貰ってもいる。
その夜は利家と2人で昔話に花咲かせた。

使者たちは勝家の元に帰り、和睦成立の報告をした。
しかし既にこの3人は調略されていたが、知らないのは勝家のみであった。

秀吉は毛利が怖い。
山陽道、山陰道に蜂須賀と宮部を備えとして配した後、長浜城に勝家の養子、柴田勝豊を攻め、降伏させた。
これにより北国街道を木ノ本まで支配した。
岐阜城も攻めた。
そして信孝も降伏させた。

一方、こうなると勝家も黙ってはいない。
勝家に与した信長軍の重臣滝川一益は、峯城、亀山城を陥落させた。

戦機は熟した。
雪解けを待たず、勝家は2月の末に近江に向け進軍した。
佐久間盛政、前田利家などの武将と3万の兵で、余呉湖の数キロ北の柳ヶ瀬山に布陣した。

秀吉はと云うと、それを見て、3万の兵で木ノ本に布陣をした。
しかし戦線は動かず、一ヶ月ほどの膠着状態が続いたのであった。

そうなると何か切っ掛けがいることになる。
上手い具合に一時降伏状態にあった織田信孝が滝川一益と組んで挙兵し、岐阜城下に進出してきた。
これを撃つべく秀吉軍は美濃に向かった。

上手いことが続いて起こるものである。
秀吉軍が大垣まで来た時、揖斐川が増水し足止めを食らった。
岐阜まで行ってしまうと近江は遠くなる。
ここなら、すぐ帰れる距離であった。

秀吉がいないと分かった勝家は、佐久間の意見を聞き入れ、攻撃を佐久間に指示したのであった。
本戦の始まりである。

木ノ本の北西には、余呉湖(よごのこ)という古くから天女伝説の湖がある。
この湖を400m程度の山が凹の字の型に取り囲んでいる。
東は大岩山、南は賎ヶ岳、西は横山という。

秀吉軍は東と南に砦を設けていた。
勝家軍は本軍は北の平地に、そして西の山裾に砦を設けていたのであった。

佐久間盛政は余呉湖の湖岸を半周して、中川清秀の守る大岩山砦に襲いかかった。
軍1万5千である。
秀吉軍はひとたまりも無かった。
中川はこの地で闘死した。
隣の砦にいた高山右近も攻められ、壊走した。
賎ヶ岳砦にいた桑山重晴も撤退を開始した。

佐久間は勝家からの撤退指示を受けたが、勝ちに気を良くして、それぞれの砦を占領して居座った。

秀吉軍のこの窮地を救ったのは、近江・若狭の大名・丹羽長秀であった。
この時、琵琶湖を船で渡っていたという。
この戦いの報を受け、2千を率い舳先を変更し、海津と云う賎ヶ岳の南西の琵琶湖岸に上陸した。
撤退してきた桑山隊と合流して、再び賎ヶ岳砦を奪い返した。

丁度その時、佐久間隊には、秀吉が大垣から撤退し、こちらに向かうと云う報が届いていて、佐久間隊は撤退を決めた所であった。
佐久間隊は山を下り、余呉湖岸を元の砦に戻ろうとして移動した。

秀吉と云う男は、相手が弱みを見せると攻める。
木ノ本で留まらず、そのままの勢いで、山を越え佐久間隊を追った。
佐久間隊の予想より早く、翌日の未明に、秀吉軍に追いつかれた。
秀吉は大垣から、余呉湖岸まで60kmを僅か6~7時間で移動したことになる。

追い付いたが、佐久間隊は強い。
秀吉軍は佐久間の救援に駆けつけてきた柴田勝政に矛先を変えた。
それを佐久間が救援すると云う形になり激戦となったのである。

佐久間には、この戦には勝算があった。
それは後詰に前田利家隊、金森隊、不破隊など最強の与力隊がいたからである。
後退を続けながら、それが盛政の活力であった。

ところが戻ってみると、前田隊はいない。
戦線離脱した後だった。
そして金森隊、不破隊は既に後退した後だったと云う。
やはり、この3将、既に秀吉へ内通していたのであった。

佐久間隊は総崩れとなった。
更に勢いを得た秀吉軍、柴田本隊を攻撃した。
勝家はこれを支えきれず、越前北の庄に向けて壊走したのであった。
余呉湖とその北の戦場は秀吉軍しかいなくなったのであった。

勝家は壊走の途中、武生にある府中城に立ち寄った。
利家と会い、これまでの利家の骨折りに対して感謝を述べ、
「かくの如くなっては、何ら報いることはできない。この上は必ず秀吉を頼むように…」
と言い、湯漬けを所望したと云う。

裏切りは利家の筈なのに、責めることはせず、部下の今後を心配したと云う。
何とも心温まる行為である。

勝家は、この戦いは長期戦の計画であった。
越江国境付近で押したり引いたりしているうちに家康を引っ張り出す作戦であった。
そのためにこの場所を選んだのであった。
しかし誤算の第一は佐久間がした深追い。
第二は利家達の裏切り。
この2つが無ければ、勝家の勝利、間違いなしであったと思われる。

しかし秀吉はその上を行った。
誘い出し、短期戦で決着付ける。
そして勝家の与力連中の裏切り。

これらをまんまと成功させ、天下人への階段をまた数段登ったのであった。

勝家は北ノ庄城に逃げたものの、直ぐに前田利家を先鋒とする秀吉軍に包囲された。

浅井の三姉妹は、前田利家に預けた。
市も逃げて欲しかった。

「市殿、そろそろ逃げてくれぬか! 城に火が掛ったら、もう遅いぞ…」
「勝家様、お市は二度も秀吉めに、殿を追い詰められ申した。もう逃げは致しませぬ」
「いや市、生きながらえて、姫たちの力になってやるんじゃ!!」

「いいえ、勝家様は織田家のために、ようお尽くしなされました。改めてお礼を申し上げまする。市は良く存じておりまする。勝家様は織田家一番のお人でございまする。市はうれしゅうございまする。織田家最後の時に勝家様とご一緒に見事に死出の旅に出て参りたく存じまする」

それを聞いた勝家、市に向き直して深礼をした。
市も同じように深々と…。
2人の心は深く通じ合った。

燃え上る北ノ庄城の中、見事な最期であった。

佐久間盛政は逃亡していたが捉えられ、惨殺されたと云う。
また、勝家の後ろ盾が無くなった信孝と滝川一益、降伏した。
信孝は切腹、一益は出家したと云う。

いつもながら秀吉の所業は惨いものである。

これで、信長織田家の旧臣は殆どの者が秀吉に臣従することになったのである。

〔完〕