物語は織田信長の姪、淀君と信長の歳の離れた弟、織田長益有楽斉如庵との姪と叔父との関係をきっかけとするものである。

織田長益有楽斉は、本能寺の変事の際、信忠とともに二条御所にあったが、敵と戦わずして逃亡したと云われ、甥を見殺しにした卑怯者と云われる節があることは否めない。

しかし別の見方をすれば、この変事を前もって知っていて、自ら退却したと考えるのが自然な流れでもある。

有楽斉は信長が亡くなってからは甥の信雄(のぶかつ)に仕えた。
そして小牧・長久手の戦いでは、信雄方として徳川家康との連合軍にいて、一隊の大将として戦った。
戦後は家康と秀吉の講和に際し折衝役としての役目を果たした。
また佐々成政と秀吉の間を斡旋したとも云われ、家康からの評価も高い。

天正18年の信雄改易後は秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡(現大阪府摂津市)に2000石を領した。
そしてこの頃、剃髪して有楽斎と称した。
姪の淀君の後見人、庇護者として常に淀の身近にいた。
淀の鶴松出産の時も立ち会っている。

有楽斉は徳川に近くそして豊臣にも近く、そして織田家のご意見番のような形でもあった。
その上、利休十哲に数えられる茶人で、自由人でもあった。
徳川からも豊臣からも、その仲を取り持てる人物として、その存在意義は大きかったのであった。

関ヶ原では東軍に属し、長男の長孝とともに僅かの兵を率いて参戦した。
少人数の隊にも関わらず奮戦したと云う。
三成家臣の蒲生頼郷を討ち取るなど、西軍の有力武将の首級をいくつかあげ、その武功により大和の国にて、3万2千石の徳川大名となったのであった。

大名となっても淀君の後見人であることには間違いない。
幼い秀頼を主君とする豊臣家のその中でも淀の良き相談相手となっていた。

得意の茶の道の伝授は云うに及ばず、我が国の歴史のこと、キリシタンのこと、明国や西洋諸国の有り様のこと、禁裏・朝廷のこと、戦のことなど広範囲に及んだのであった。

人間の有り様の話では、今の淀には最も大切であると思われる足利義政の正室、日野富子の話をよくした。
淀には、もう耳にタコができるほどに聞き及び、諳んじるまでになっていたのであった。

日野富子は室町幕府を支えたスーパーウーマンである。
彼女がいなければ室町幕府はその時点で、滅亡していたと云われる。
そうなっていれば、日本の歴史は大きく変わっていたに違い無いが…。
富子が繋いだので幕府という仕組みは生き延び、織田・豊臣・徳川にバトンタッチが繋がったのではと思われる。

日野富子は、京都山科の日野郷の豪族日野氏の生まれである。
よくご存じの一向宗親鸞上人の生地も近くである。

将軍義政の生母が富子の大叔母にあたるため、その縁で16歳の時義政の正室となった。
四年後に初めての子が生まれたが、その日のうちに夭折したという。
義政の乳母や側室が呪いをかけたためだと怒り、それらを追放してしまったのであった。

それは、もの凄い程の権力行使であった。
皆は震え上がった。その時以来、おとなしく富子に従うようになったと云う。

その後、富子は子を産むが、2人とも女児であった。
義政将軍は後継者に実弟の義視を後継者としたところで、富子に待望の男子が生まれた。

勿論富子も人の親、我が子義尚を将軍にしたくてしようがないのだが、私的な考えだけで幕府を動かすわけにはいかない。
ワンクッション置くのも良かろうと、大局的見地を装い、義尚に固執はしていなかった。

そこに、有力武家、斯波氏と畠山氏の家督相続問題起こり、上御霊神社で
争いが勃発した。応仁の乱である。
これに、山名宗全が乗った。大義名分は義尚の後援者としてである。
そうなると義視の後援者も必要である。細川勝元が名乗りを上げた。
なぜか、東西に分かれて、戦いが広がって行ったのである。

富子は戦いの全時期を通じて東軍側に近いところにいたと云われている。
しかし、将軍家である。
中立を装い、そ知らぬ顔でいたのは間違いが無い。
軍事費用を両軍の大名などに、多額の貸し付けをしたのは勿論のこと、米への投機も行うなどして、一時は今でいう60億円もの資産を蓄えたと云われる。

応仁の乱が始まって10年も経った。
山名宗全、細川勝元が相次いで亡くなってしまった。
そうなると自然解散、流れ解散である。
既に政治に興味を失っていた将軍義政は、元服した義尚を9代将軍に就け、自らは小河御所へ一人で隠居してしまったと云う。

そして富子の兄である日野勝光が新将軍義尚の補佐となり、権勢を奮ったが、その兄も没してしまうと、富子は実質的な幕府の指導者となったのであった。

「御台一天御計い」するといわれた富子に対して、進物を届ける人々の行列は1、2町にも達する凄いものであったと云う。

将軍義尚は在位が長くなるに連れ、富子を疎んじ始めたのであった。
そして富子は一時権力を失ったと云う。
しかしながら、義尚が25歳の若さで没してしまった。

富子は一時、息子の急死に意気消沈したと云われる。
しかしいつまでも滅入っていられない。富子は義視と自分の妹の間に生まれた足利義材を将軍に擁立するよう義政に働きかけ、義材が10代将軍となったのであった。

義材の後見人となった義視は、今も尚、権力を持ち続ける富子と争った。
そして富子の屋敷を破壊し、領地も差し押さえたという。

その翌年に義視が没してしまったのであった。
止む無く独り立ちして親政を開始した義材もまた、やはり富子と敵対したのであった。

その後、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材の将軍位を廃した。
そして、義政の甥の足利義澄を11代将軍に就けたのであった。

しかしその3年後に、富子は57歳であっけなくこの世を去ってしまった。
都合40年もの間、幕府御台として幕府を切り盛りしたのであったことは見事であった。

富子は蓄財の才と幕府の経営には長けていたと云われる。
蓄財した金も、火災で焼けた御所の修復などには惜しげもなく出したが、夫義政の銀閣寺造営には、一銭も出さなかったと云われる。

また、学問にも熱心であり、莫大な金を積んで、関白一条兼良に源氏物語の講義をさせたと云われる。
関白が女性に講義をするのは異例であったという。

このような趣旨の話を、微に入り細に入り、有楽斉は話したのであった。
特に毅然とした政治の有り様、蓄財の才には力を入れて話したという。

淀は困り果てていた。
頼みとする家康も、江戸幕府の体制構築で忙しい。大坂には知らん顔である。
岡崎や駿府にいるのだが、こちらから出かけるわけにもいかない。

「主家である我が豊臣家をないがしろにしておるのか…?」
秀頼の周りにいる武将たちにつぶやきとも問いかけともするが、返事はない。
「如何がしたもんであろうかのう…?」
どうも淀なりに、自分で決めて行動するしか無いようである。

家康が江戸幕府を開いて、京に二条城を築城した。
そして大軍をもって二条城に入り、朝廷や禁裏、そして庶民に大いに威容を見せつけたのであった。

時を同じくして、秀頼を二条城へ寄こせという誘いまがいの命令があった。
ご丁寧なことに、秀吉の正妻高台院から淀へのルートである。
一見穏やかな申し入れであるが…。
「なんじゃと…? 家康ごときが偉そうに…」
と思うが、何らかの策略がありそうである…。

秀頼はまだ12歳、元服もまだである。
周りに居る家臣たちに考えを聞くが、一向に答えは返ってこない。
家臣たちはどうしたらいいかのか、狼狽えているのがよくわかる。
策が浮かばないから、言えないのだろうと思われるが…。

有楽斉に聞くが、これも答えが返ってこない。
「お好きになされませ…」と、のみである。
しかし、
「御台富子ならどうするかのう…? 聞いてみたいもんじゃなァ…」
とつぶやいたりする。

これは有楽斉の作戦である。
『もう十分教えておるはずじゃ…。自分で判断はできる筈じゃろうて…』
期待を込めて、黙っているだけである。

それでも淀は、
「叔父も、もうボケに入ったか? 頼りにならんわのゥ…」
と戯言を言いつつ、話はそれで終わってしまうのが残念であった。

あれこれ悩んで、眠れぬ夜があった。
うとうとしたのか?、夢うつつであったようである。

突然目の前に、富子が座っていたのであった。

『淀とやら…。大方の話は聞いたゆえ…、そちなりの考えを言うてみるが良かろう…』
「わらわは、何をしたいのかわからんのじゃが…」
『何を悠長なことを申しておる。もう時間はないであろう…。男どもに任せておけば、何をしでかすかわからんぞよ…。知らぬ間にお家乗っ取りになるかも知れませぬぞ…。しっかり言い聞かせないといけません。それに、金じゃ…。金を有効に使うことじゃな…。万が一、戦になれば、いろんなものが入用になろうと…』

「どうすれば、よいのじゃな…?」
『それはご自分で考えなされ…。御家のためになることをですぞ…』
「御台様…」

ボーっとしていた。見えるのは天井に描かれた桜の絵柄だけである。
その花の中に、富子はスゥ~っと消えてしまった。

「夢か…? しかし室町の御台富子は、言うてたな…。男どもに任せるとロクなことにはならない…。それと金銀の使い道じゃな…」

そろそろ明け方である。
「陽が上ったら、有楽斉に話してみるとしようか…? 今のことをな…」
と、侍女を呼んで、
「夜が明けたら、叔父上殿の都合を聞いて参れ…!」
と、言いつけたのであった。

「叔父上殿…。今朝方、夢を見たのじゃ…。わらわのすべきことは2つ。豊臣家の家事一切の決済をわらわが行う。も一つは、わが家に役に立つ金銀の使い方じゃ…。この2つじゃが、如何なものかな…?」

「それで、良うございましょうて…。明日にでも、家臣一同を集めて、きっちりと申し渡されることでござるな。それに金じゃが…。すでに太閤様ご供養のために、多くの寺社に御寄進なされていらっしゃるが、まだまだ不足という意味でござるかな?」

「それはそれで、続けるつもりじゃが…。新たな金銀の使い道のことじゃ…。昨今の家康めの、仕方を見ていると、何のかんのと難癖をつけて来ているようじゃ…。この先、どのような難題を押し付けられるかもわからんでのぅ…。いつ何時に備えて、力を蓄えて置かぬとな…」

「戦のことであるかな…? 交渉事を有利に運ぼうと思えば、そりゃ力を示すのが早道じゃがな…。それが反ってアダになることもござる…。お勧めはできませぬな…」
「叔父上は争い事はお嫌いじゃでのぅ…。こ度の秀頼上洛のこと…。きっちりとお断りいたす積りじゃが…、その後の徳川の動きを見て、決めても良かろうと…」

「それがよろしかろうと存ずるが…。焦りは禁物じゃ…。おうようにお構えなされ…。天下の秀頼様の母上様じゃからのぅ…」

あくる日、大坂城本丸広間に、豊臣家臣、一堂に集められた。
大方の者は何事が起こるのかと思いつつ、巳の刻までに集まった。

一段と高い上座には、当然のことながら、秀頼と淀が座っている。
「皆の者、秀頼のために早速の馳せ参じ、大義である。よいか、よく聞いてたもれ!」
淀の話が始まった。

「これからの豊臣家の家事一切、秀頼元服までは母たるわらわが決裁致すことにする。おのおの異論なかろうな?すべてのこと、まずわらわの耳に入れてからでなければ、動いてはならん! よいな!! 勝手に動いたものは謀反人として処罰致す。そう心得よ」

このように、淀が豊臣のリーダーとして振る舞うことを皆の前で明らかにした。
引き続いて、
「且元(片桐)殿は、徳川に出入りし、御仁達と何やら策略を謀していると聞こえてくるが、以後一切の徳川への出入りは罷りならん。もしも、出入りしたいのならこの城へ近づくこと、一切ならん。そう心得よ!」

「母上殿…。決してそのような…。徳川との仲を、順調にことが運びまするように、との調整でござる。誰がそのような…、謀略などとはとんでもござらん。これからは、御不審なきよう、逐一ご報告申し上げまする」
「且元殿、もう良い…。わらわに、何でも打ち明けてくれればそれでよいのじゃ…。徳川殿とは、主従じゃからのぅ…。争い事はしたくはないのじゃ…。上手くのぅ…」
「御意…、畏まりてございまする」

「治長、残っておれ! 話があるゆえ…。
わらわの話はこれで、終わりじゃ。皆の者良いな…。心してな…。下がって良い」
一同、深々と礼をして、散会となったのである。

「治長、ちと相談じゃが…。この大坂城には、何人の兵を入れることができるかのぅ?」
「それは、母上様…。10万は堅いところでございましょう…」
「そうかのぅ…。そちが手配してくれまいかのぅ…。それと、武具・武器じゃのぅ…。それもな…。大筒は難しいかのぅ…。家康めに堺がおさえられているからのぅ…。何とかならぬものか?」

「お任せあれ…。家康の息がかからぬ西国あたりから、何とか…」
「金銀は存分に用意はしておる。良しなにな…」
「御意でござる。お任せあれ…」

淀は忙しくなった。
何のかんのと家臣から言ってくる。
良きに計らえでは、元の木阿弥である…。
一つ一つ丁寧に聞いていると、瞬く間に一日が過ぎてしまう。
それでも辛抱強く聞いて、アレコレと指図をしていたのであった。

中には、いい話を届けて来た者もいる。
紀州九度山に蟄居させられている真田昌幸・幸村の親子からの使者である。
淀にまみえて、
「真田親子は是非とも助太刀申し上げると云ってござる…。いかに?」
との話をした。

淀は小躍りしそうにはなったが、一家一城のリーダーである。
抑えて抑えて、どこ吹く風を決め込んだ。
しかし、その時期になれば必ずややって来るであろうと、その確信を胸に秘めたのであった。

時は経って行く。
秀頼も官位を登り詰め、朝廷での評価は豊臣家は五摂家の一としての扱いとなっていた。
家康も豊臣の扱いには困る風であった。
このままの異常な状態を何時までも続ける気はない。

家康は、ことあるごとに朝廷に、秀頼の官位を無きものにせよと働きかけるが、そうは簡単にはいかない。

1611年、天皇位は後陽成天皇から後水尾天皇に譲位された。
勿論のこと、先の天皇の隠居所建設や付き人の変更など、かなりな費用がいる。
家康が全てを手当したと云う。

家康方から淀・秀頼にまた誘いがあった。
名目は秀頼の室・千の祖父への挨拶である。

淀は考えた。
「秀頼のことも秀頼のことだけど、この機会にわらわの権威を家康に示しておかなければ…」
と、二条城へ出向くことにした。
それにはできるだけの贅を尽くすことにしたい。

その隊列は公家と武家とが合わさった、見事なものであったという。
大坂や京の町の人々は皆、沿道でその威容に触れ、さすが豊家であると、納得と喝采をした次第であった。

行列の先頭がは二条城へ到着した時には、列の後部は五条通りの辺りであったと云う。
淀一行は早速、旅装を解いて会談に臨んだのであった。

「秀頼殿、恙なきようで何よりじゃ…。千も元気そうじゃのぅ…。この家康、安堵致し申した。」
「大御所様も恙なきさま、祝着至極に存じまする。御家のますますのご発展をお祈り申し上げまする…」
と秀頼も卒なく答える。

「淀殿、豊家の切り盛りご苦労じゃな…。千も居る故、上手に頼みましたぞ…」
家康は、当然のことながら、上から目線である。

負けじと淀は知恵を働かす。
「秀忠様御台(末妹、江)のこと、よろしゅうに頼みましたぞ…。家康殿も恙なきよう、願っておりまする」

一言二言である。そして、会談は終わった。
淀は来た時と同様、大行列にて、大坂に帰って行ったのであった。

数年経った。
いよいよ痺れを切らした家康、豊臣家にいちゃもんを付けた。
例の方広寺の梵鐘の銘文である。
「国家安康、君臣豊楽」である。
こういう小さい文字をどのようにいて見つけたのかは分からない。
多分、製作するときから分かっていたものと思われるが…。

家康は、あれこれと高飛車に注文を付けて来る。
使者にあの片桐且元や高台院を使ってである。

言われたからには淀としては対応が迫られるが、判断がつかない。
混乱の極み、泣きたいくらいである。
一城の主であるが、困り果てていた。
しかし、人前で弱音を吐くわけにはいかない。

淀は、かつて夢枕に立った、御台富子に会いたかった。
この苦境を乗り切るには、彼女の知恵と力が欲しかった。

今まで多額の寄進を続けて来た京・大坂の大寺院の住持大僧侶3名を選び、大坂城に呼び寄せた。
そして山里曲輪に閉じこもり、余人を寄せ付けず、3日3晩に渡り祈祷をしてもらったのであった。
富子の出現、その1点に絞って祈りは続けられた。
そして、丸3日が経過した日の夜明け方のことである。

「くそ忙しい時じゃのに…。ここはどこじゃ…?わらわを呼びつけるたのは誰じゃ? 不届き千万、ことによっては成敗してくれるぞよ…」
山里曲輪の玄関から、ドタドタと御台富子が入って来た。

それを見て僧侶たちは目配せしながら、控えの間にスゥ~っと引っ込んだのであった。

「御台様、よくおいで下さいました。茶々と申す浅井の娘にございまする…」
「何? 浅井知らぬな…。どこじゃ?」
「北近江でございまする…」
「なんと…。六角の輩か?」
「それは聞いておりませぬ。ここは大坂の城、あなた様のお力を借りとう存じまする…」

「呼び出してその上、力を貸せだと…? 貸しても良いが、金はあるのか?」
「そりやもう…、ご所望の通りに…」
「それならば、よいわ…。貸さぬでもない…。望みのところを、言うてみるがよい」
淀はあらましを語った。

「尾張の織田?、三河の松平? どこぞで聞いたことがあるような、無いような…。それがどうしたんじゃ? 今上の天皇は、後陽成上皇に、後水尾? 聞いたこともないぞよ…。皆、騙りか?」
「御台様、今は御台様の時代より、100年も後の時代でございまする…。御台様がお亡くなりになられて、世の中乱れに乱れて、今日に至っておりまする」

「わらわが死ぬ? そんなこと誰が決めたんじゃ? そんなことある筈がないと…。まあよいわ。で、どうして欲しんじゃ?」
「徳川、いや松平と、戦は避けられませぬ。そうとなればどう戦うか…? その一点でございまする…」
「そんなの簡単じゃろう…。貴家は摂家じゃろう?何のための摂家じゃ?天皇に刃向う輩をとっちめるのに、何もいらぬじゃろう…。帝に行幸を所望すればよかろうと…。それで全て決まりじゃ…。明日にでも、所望に一緒に行ってやるがのゥ…」

「そうでございまするな…。 しかし御台様にはそこまでしていただかなくても、大丈夫でございまする。われらで出来ようとかと存じまする。太閤殿下のご威光が通じるならば、上手く行きまするな…」

「摂家ならば、宮中に入ることはできようが? しかし、そう簡単にはいかんぞ…。九条とか近衛とかがおるであろう、まずそやつを焚き付けることじゃ…。わかっておろうのゥ…」
「もちろんでございまする…。どちらの御家も、ご苦労なされておられるからのゥ…。御邸宅の修理でございましょう…。御台様も良くその手をお使いになったと…」

「これ、大きな声で言うではない…。そうしなければ、人というものは動かんぞ…。帝のお屋敷と中継ぎの公家のお屋敷…。まず、やってみなされ!! 駄目なら次の手を考えるが良かろう…」
「御台様、早速手を打ってみまする。幸いなことに、関白が懇意にしていた近衛殿がおわす。関白秀吉の猶子になって入内した後陽成天皇の女御、そして今上の後水尾天皇の母、中和門院前子殿がおわせられまする。好都合じゃと思うておりまする…。それにこの城内にも、近衛の子息がおる故、何とかなろうかと…」

「ほうう…そうか、そうか…。それはまず、首尾は上々じゃな…。願ってもないお人のようじゃ…。早速な…」

そこへ淀の侍女が入って来て、耳元で何やら囁いたのであった。

10

「御台様、お部屋が整いてございまする。ご案内仕りまする。」

富子は本丸庭園の良く見える部屋に案内されたのであった。
「御台様、しばしのおくつろぎを…。早速、例のこと手配して参ります故…」
「淀殿、見事な庭じゃのう…。まるで極楽浄土のようじゃな…。花も木も、生き生きとしているわ…。
早よう行って参れ!! もたもたは禁物じゃ…」

淀はあくる日、早速近衛家の者を呼んで、天皇行幸の件を相談した。
そこには驚くべきことが起こっていたのであった。
淀の驚愕は尋常ではなかった。
「な、なんと…!! 江の子、和姫が中宮に…、話が進んでいるとな…。そんな馬鹿な…!?」
「本当でございまする。家康様から直接の申し入れがあって、帝も大喜び。婚儀の件、進んでいるところでござる。豊臣からの願いであったとしても、そちらへの行幸はなさいますまい。ちと時期としては悪いと思われまするが…」
「それならば…、仕方がないないのゥ…。次の手じゃ…」

淀はその足で、本丸の富子の部屋へ渡ったのであった。

「御台様、ことの次第は、お話しした通りでございまする。いかがいたしたものかと…?」
「なるほどな…。敵もさるものじゃな…。ふ~ん、次の手じゃな…。
日頃の忙しさを忘れてのんびりしたぞよ…。もう少し待たれよ…」
「御台様、そんなのんびりとしていてはいけませぬ。ことは急を要しているのですぞ…」
「淀殿もお気が早いのゥ…。庭を見てごらんなされ…。冷静にもう一度考えるのじゃ!! しかしその徳川ってやつ、隅に置けない輩じゃな。こっちの先々を考えておるようじゃ…」

実は御台富子は悩んでしまっていたのであった。
「いよいよ敵、将軍家も本気じゃなァ…。戦いは避けられないかも知れんのゥ…」
「御台様、戦いは構いませぬが…。戦いには勝てば良いと存じまする」
「その勝ち方じゃが…。敵はこの辺りの地理には疎かろう…。良さそうな所へ、出城を築くのじゃな…。京からの街道筋、大川の右岸左岸に合わせて2か所、大和らの街道筋に合わせて3か所、紀州からの街道には、2段階に2か所、これくらいでどうじゃな?」

「そんなにも沢山の砦が要るのでございまするか…? この城は難攻不落ゆえ、この城だけでも十分と思いまするが…」
「淀殿、何を馬鹿なことをお言いか!?籠城は最後の手段、野外戦が大事よ…。敵は荷駄食糧無しでは戦えんからの…。沢山の人数をそれの手配部隊に割かねばならんわ…。戦闘兵力を減らさせるのじゃ…。
もちろんのこと、こちらは城に食糧は十分蓄えておかなきゃならんぞ…。砦へは、食糧は城から直ぐに運べるからのゥ…。それが勝利の秘訣じゃ…。
それと武将じゃ…。
若くてもいいから、武勇・知力に優れたやつをのゥ…。それに砦を守らすのじゃ…。戦が長引くと、敵は諦めて引いていくこと請け合いであろうと…。
砦の周りの住民たちにはのゥ…。十分な金をバラマキなされ…。必ずや役に立つ…。これだけやれば、勝利間違いなしじゃ…」

「御台様、お教え有り難く存じまする…。早速、男どもに、指示してまいりまする…」

11

淀は思い切りも良い。
そして決めたら直ぐに動くタイプである。
伯父信長譲りであろうか…?

淀は、侍従を呼びつけ、
「軍議じゃ…。触れて参れ!! それと、鉢巻、白襷、薙刀を持って参れ!!」
と指示したのであった。

暫くして、本丸大広間、淀の凛々しい武闘姿を正面に、軍議が始まったのであった。

淀は思った。
『日野富子、この女、これは本物の室町の影の将軍であろうな…。屋台骨を一人で支えてきたような…。凄いわ。負けないようにしなければ…。富子が正しいか? わらわが正しいか? 勝負じゃ!』

男どもの前で、淀は決意を固めてしゃべりだしたのであった。
「今や東夷と成り果てた家康は、信長公そして我が関白殿下に弓を引こうとしておる。
よいか皆の者、よく聞け!!恩顧も何もわからぬ徳川との決戦じゃ…。
徳川に組みしたいものは、出て行ってよいぞ!! 当座の金銀は与える。豊家に仕えてくれたお礼じゃ…。
織田家・豊臣家そして秀頼とこの城と、一緒に戦おうと言うてくれる者は残ってよいぞ!! わらわは不甲斐ない奴は要らぬ! 白黒はっきりつけて、戦いに臨むのじゃ!
一日の猶予を与える! 軍議は明日再びじゃ!」

富子は淀の後ろの御簾の中から眺めている。
『ほう…、この女、なかなかやるもんじゃのゥ…。
どうなるか、楽しみじゃのゥ…。』
とほくそ笑んでいたのであった。

真田幸村信繁が大坂城に到着した。
山伏の格好をしている。
紀州高野山から、間道を辿ってここまで来たという。

「真田殿、ようお越しになられた…。そのお身なり、大変な道中とお察しいたしまする…。ようおいでなさった。淀は嬉しゅうございまする…。
それはそうと、御父上にはお気の毒でござりましたなぁ…。御心痛お察し申し上げまする…」
「淀殿、そのお言葉忝い。もう3年も前のことでござる…。父上の分も存分に働かせてもらいますぞ…。そのうち上田からも、人数が駆け付けよう。弔い合戦にもさせてもらいましょうぞ…」

12

暫くして、片桐且元が淀の前に来た。
「母上様、お暇をいただきとうござる」
「お前の顔なんか見たくもないわ!! 早々に立ち去れい!! 遅すぎる! 早く出ていきゃ!!」
と顔も見なかったのである。

「有楽斉殿を呼んでたもれ!」
侍従に言いつけた。

「叔父上様、何から何まで世話になったのゥ…。色々の御教示、改めてお礼を申し上げまする…。この上は、ここを出て、風雅に生きてくだされ…。もう何も申し上げますまい…。健吾で過ごされますよう、お祈り申し上げまする…」

「淀殿、このようなことになり残念でござる…。かくなる上は、武勇を願っておるでのゥ…。また、お会いできましょうぞ…。お茶でもゆっくり嗜みましょうぞ…。さらばじゃ…」
互いに深々と一礼し、有楽斉は寂しげに立ち去って行ったのであった。

「千をここへ…」
千がやってきた。
「千、いよいよ戦いは避けられぬのじゃ…。父上母上様の元へ出立するがよい…。母の願いじゃ…。今すぐ支度じゃ…」
「何を申されます、母上様。千はこの城の主様の御台でございまする。この城を置いて、ほかに行くところはございませぬ! 千に必要なのは、母上様と同じ襷と薙刀でございまする!」
「千、そう言うてもな、父上や大御所と戦うのじゃぞ。そんなこと、出来ようはずがないであろうが!! 今すぐ出立じゃ・・!!」
「母上様…」

千は泣きながら、引き上げたのであったが、再び現れた。
鉢巻を締め、襷・薙刀姿であった。
もう泣いてはいなかった。
「千、もう良い…。分かったわ…。さがっておれ…」

あくる日になって、軍議が始まった。
片桐、有楽斉を除いて、全員が残っていた。
それに頼もしい見方、真田幸村もいた。

富子も尼僧の格好をして、正面ひな壇の隅にいた。
他にひな壇には秀頼、千がいる。もちろん淀もいる。

13

秀頼、
「皆の者、こ度は奸族徳川を撃つ戦いであるぞ。敵の出方は未だ定かならずであるが、必ずや押しかけてくるであろう…。万全の備えにて迎え撃つ。皆も、心してな…」

淀、
「ここに軍師を招いておる。富顕尼(ふけんに)と云われる。知略、戦略万能じゃゆえ、よくお従い申すようにな…。
さて、早速陣の配置じゃ…。いきなり籠城作戦を唱える向きもあろうが、ここは野外戦に持ち込むつもりじゃ…。
敵はな、遠来の軍ゆえ、日々、武器食糧の手配が必定であろう…。これが弱点じゃ…。まず、この城の金銀のある限り浪華中の食糧・武器を買い占めるつもりじゃ…。それには、大野、頼んだぞ…。
次に砦じゃ…。これは軍師殿にお決めいただこう・・。」

富子の出番がきた。
「この城から、2里の場所に砦を築くがよかろう…。先ず、北方、大川の右岸、誰ぞやってくれる者はおらんか?」
名乗りはない。
「なぜ、名乗らないのじゃ? 初めから負け戦か? わかった。
それじゃ、やりたくない者はまずここから出て行ってもらおう! ややこしい奴は要らぬわ!」

「後藤又兵衛、必ずや敵に尻尾を巻かせましょうぞ…」
「木村でござる。後藤殿は引っ込んでおられい。拙者が必ず…」
「堀田じゃ。儂に任せなされ。必ずや…」
「拙者が…」「拙者が…」
あと数名も名乗りを挙げた。

「ほおぅ…、勇ましいのゥ…。それならここは、堀田殿にお任せ申し上げる」
「次に左岸じゃ…」

もうそこここで手が上がる。
放っておいても次々に決まっていく。
富子は、それぞれの武将の気概を感じ取りながら、これはと思う者に任せていくだけであった。

14

「最後に、真田殿には南の守りをお願いしようかのゥ…。それと後藤殿、秀頼様の御そばで働くがよかろう。残りの者は城内にいて、友軍じゃ…。ボウっとしてるではないぞ…。城の守りを強固にするのじゃぞ…」

布陣は決まった。
早速、各武将城外へ出て行ったのであった。
時期は1614年の、もう秋も深まろうと云う頃であった。

外へ出た堀田、砦を設ける場所の物色をしたが、なかなか定まらずであった。
城の外堀の外や川の辺りは築けそうであるが一里も離れると、もう徳川の先発隊が、少数であるが布陣をしている。

2里向こうなんてとんでもなかった。
敵の中に、砦を築くなんてできない相談である。

どの方向もそうであった。堀田は、
「しまった…。出遅れた…」
と思いつつ、帰城してきたのであった。

軍師の部屋に行った。
砦の武将たち、集まっていた。
堀田も「無理でござる。」と報告したきり、黙ってしまったのであった。

「ならばどうするのじゃ? 場所を取り返しに行けば良かろう? もたもたしてないで、早速、夜討ちの準備をなされい!!」
「軍師殿、そんなことしても、消耗するだけではござらぬか? ここは籠城とお決めくださりませ…」
「何を馬鹿げたことを…。それでも武士の端くれか!? 早う支度しや!!」
軍師の剣幕に驚いて、一同準備に掛かったのであった。

徳川軍はもう城まで一里程度のところまで詰めてきている。
夜陰に紛れて大坂城から部隊が出かけていったのは良かったが、敵も察知していたのか、そこここで直ぐ戦闘になってしまった。

豊臣軍隊はそれぞれ一応の部隊の体をなしているとはいえ、浪人の寄せ集めで、てんでバラバラ、軍隊の機能はしていなかった。
おまけに、すぐそこには逃げ帰る城もある。
こういう状態では、決死の戦闘はできようはずがない。

一方、攻め手の徳川軍はそれぞれが鍛えられた生え抜きの戦闘隊である。
おまけに逃げる場所もない背水の陣である。

どちらが強いか、火を見るより明らかであろう。
夜討ちどころか、相手の戦闘意欲に火を付けに行っただけであった。

15

大坂城の野戦部隊全隊、さしたる戦果も無く引き上げたのであった。
「そうかのうゥ…。もうそこまで敵が来てるのじゃな。仕方ないのゥ…、籠城に切り替えるか…」
軍師富子も弱気になったのであった。

実は徳川軍、大坂城に近い北側の大川べり(現在の造幣局のあたり)と、東側である鴫野の辺り(現京橋OBP)の確保に必死であったのである。
理由は簡単、大筒100門の設置場所の確保である。
これらの場所からは、城内に砲弾を撃ち込むことができると読んでいたからであった。

程なく徳川軍は大砲の設置に取り掛かった。数か所に分けてそれぞれ20門位づつ並べていく。
天守閣から眺めていても、それはもう壮観であった。
そうはさせじと城内から打っては出るが、たちまちに追いやられる。
それを繰り返しただけであった。

城内では混乱をきたしていた。
大砲がこちらを向いている。撃たれればこの城も破壊されてしまう。
そうなる前に総攻撃をすべきと云う声が高まっていた。
しかし、総帥の淀はいたずらに兵を失うことを良しとせず、戦闘には出向かせ無かったのであった。

ただ一人、南方向、大坂城と丘続きの南の台地の頂上付近に、真田幸村は砦を築くことに成功した。
幸村は信州上田から駆け付けた真田の家臣たちとこの砦を拠点として、徳川軍を悩ますことになったのは、せめてもの作戦成功事例であった。

徳川軍の砲撃が始まった。
最初はなかなか城には到達しなかったが、何日か経つうちに当たり始めた。
淀や富子は歯がゆい思いで見ているしかなかった。

ある夜、淀の居室の近くに砲弾が来た。
淀は震え上がった。
鬨の声も上がる。
「軍勢が…?」
と怯えるが、暫くすると静かになる。

眠れない夜が続いた。

ある時、本丸御殿の富子の居室付近で砲弾が炸裂した。
淀や武将たち、大急ぎで助けに行った。

16

砲弾の場所では、7人の女中たちが倒れていて、もう息もなかった。
富子の部屋に行ってみた。
誰もいない。

「軍師様~ァ」「軍師さま~ぁ」
皆で大声を上げながら、隈なく探した。
しかし軍師、御台富子を見つけることはできなかったのである。

「軍師さま…。お亡くなりになられたか?もう終わりじゃ。軍師様~ぁ」
と淀は悲嘆にくれたのであった。
もう戦どころではなかった。

「和議じゃ!! 和議じゃ!!
誰ぞ申し入れて参れ!!」
と城内で大声でわめき散らす淀の姿があった。

〔完〕