現在、京都伏見にある「TH酒造」は戦後移転を果たして、成功をおさめた酒蔵である。
どこから移転したかと云うと紀州和歌山からである。

創業はかなり古く、初代六左衛門が、江戸初期に紀州藩の第2代藩主徳川光貞(家康公の孫)の免許で創業している。
玉乃光という酒銘は、紀州熊野の速玉(はやたま)神社に帰依した初代が宮司より拝受した名である。
「天照大神の御霊が映える酒」の意味が込められていると云う。

以来、このTH酒造は紀州藩や和歌山の人々と共に栄えてきた。
明治28年の全国酒造家石高番付けには、宇治田酒造店の名で2727石と記されている。
また終戦後の農地解放の際には、十代目六左衛門が所有していた紀ノ川沿いの農地は、優に約40万坪を超えていたと云われている。
いわゆる「肝煎り庄屋」として酒造りを営んできていたのであった。
蔵の場所は現和歌山市寄合町、和歌山城の少し北の一等地である。
寄合橋という橋があり、その袂はこの酒蔵や米問屋などで賑わっていたと云われている。

この酒蔵は明治ごろから米だけにこだわった純米酒に着目していて、飽くなき品質の追求と、現金商売に力を入れてそのファンを増やしていった。

そして大正時代にも、酒質を吟味厳選した逸品で出した。
純米酒特有の自然な酸味を醸す玉乃光の酒は、和歌山の名門蔵の地位を不動のものとして行ったのであった。

しかし、昭和の軍国主義の台頭で、酒の市場は閉塞した。
TH酒造も造石高、酒米の制限を余儀なくされ、苦しい時代を過ごしたのであった。
そして、昭和20年7月9日、和歌山市上空をアメリカのB29爆撃機が襲うことになる。

酒蔵を再建するなら、京都の伏見の酒処で、と云うことで移転を果たしたのであった。
しかし戦後はまれにみる食糧難の時代、酒を自由に造ることはできない時代であった。

先の平安絵巻のところで述べた三倍増清酒(三増酒)が開発され、持て囃された時代である。

しかしTH酒造はそんなことにはお構いなしに、純米酒の開発を続けたのであった。
そして食料難が解消された頃を見計い、業界に先駆け純米酒を復興し発売したのであった。

しかしTH酒造は純米酒の原価高に苦しむことになる。
アルコール添加酒(アル添酒)という醸造用アルコールを添加した酒がある。
いわゆる本醸造など呼ばれる酒である。
この酒に比べて純米酒は2倍の米の量が必要になる。
しかし酒税などの特別対応はしてくれず、アル添の2級酒に比べ価格が2倍ほどの純米酒を「無添加清酒」(2級酒)として、昭和38年に発売に踏み切った。

その後、昭和50年代の特定名称酒ブームが到来。
地酒やら純米酒が大いに飲まれるようになり、それに先行していたTH酒造の地位はゆるぎないものになったのである。

御承知のようにアル添酒は平成5年をピークに激減する。
勿論三増酒は料理用くらいにしか使われない。
逆に純米酒や吟醸酒が増加の一途を辿っている。
現在では純米+吟醸の量が本醸造酒の量を抜いているのである。

TH酒造では、純米酒が市場で12%を超えた時を「純米酒ルネッサンス」と呼んでいる。
アル添酒から開放され、本来の酒のあるべき姿に戻るという強いメッセージを出している。

玉の光を手に入れた。
近所のスーパーに置かれていた「酒魂」である。
もちろん純米酒である。

今は冷やが美味い季節である。
冷蔵庫で冷やして飲んでみた。

味は、甘くも無く辛くも無く、中くらいである。
フルーティーでも無く、全く奇をてらう風でも無い。

これが純米酒の原点かと思いながら、TH酒造の歴史を偲びながら、飲んだのであった。

〔たノ酒 完〕