兵庫県の阪急電車西宮北口駅から今津線に乗って小林駅を目指すことにした。
今津線は西宮北口から六甲山の東麓を北上し、梅田から来る宝塚本線と合流する路線である。

乗車した電車は門戸厄神を過ぎ、KG大学のある甲東園を過ぎ、JRA阪神競馬場がある仁川駅を過ぎて、目的の小林駅に到着した。

小林駅は駅舎はそう大きくはないが、駅周辺は結構広い。
巨大な駐輪場が用意されている。
これほどの大きな駐輪場はあまりお目にかかれない。

朝には多く自転車が集まり、夜になれば帰ってしまう、小林の周辺の住宅地は自転車が便利なのであろう…。
これが小林駅の特徴であろうかと思われる。

小林駅の西側の丘陵地には現在は女子高それに宝塚ゴルフ場があるが、この一部の場所に戦後間もなくは阪神競馬場の厩舎があったことで知られている。

当時、阪神競馬場建設の場所を巡って、現在の仁川とこことで紆余曲折があったようであるが、競馬場は仁川、厩舎はここと云うことで変則的に運用されたことがあった。
その後、厩舎は仁川の競馬場の中に設けられたが、現在は厩舎は全て滋賀の栗東トレセンに吸収されている。

小林駅から線路沿いに小林の街をウオッチングして見る。
ちょっとした商店や事務所はあるが、殆どはマンションと個人住宅である。
暫く歩いて、宝塚神社という看板があったので、矢印に従って行って見ることにした。

宝塚神社はちょっとした高台にある。
坂を登ってお参りを済ませ、ご朱印をお願いした。

ご朱印を待つ間に、色々と聞いて見た。
この神社の丘から見る朝日はことのほか見事であると云う。
確かに木々の間から街を眺めてみると、ずっと向こうまで開け、眺望良しである。
元旦には、多くの人が訪れると云うことも発見であった。

この宝塚神社は元は日吉神社という名である。
通称「山王権現」と云われ、村人に崇敬されていた。
東の下にあった素盞鳴(すさのお)神社を合祀し、以来、宝塚神社と云う社名となったとのことである。
境内には立派な恵比寿社もあって、10日戎で賑わったのではないかと思われる。

この神社の北隣には、平林寺と云う寺がある。
この寺と神社は境内繋がりであったようで、元は寺と神社が一体であったと云われている。

隣の平林寺にもお邪魔をした。
この寺は聖徳太子が創建したと云われている。
創建は古く、飛鳥時代以前、西暦500年台、用命天皇の時代まで遡ることになる。
真言宗の寺で、現在も参道に4つの塔頭がある。
一時期衰退していたが、平安時代になって如一尼と呼ばれる尼僧によって再興され、興隆を極めた。
その時には30余坊もあったと云われている。

戦国時代になって、荒木村重が信長に攻められたときには、この大寺院も焼かれたが、その後再建され、現在に近いものになった。
この一角は寺社がいくつかあって信仰の地域であると新たに認識した次第である。

平林寺を後にして、小林〔お(を)ばやし〕の住宅地を歩く。
住宅地の中に小さな児童公園があったりする。
寒い時期なので、人は見かけない。
桜の木も植えられていたりする。
暖かくなれば、子供の賑やかな声が聞こえて来るのであろうと思われる。

暫くして「伊孑志」と云う地区名に入る。
この字は全く読めない。

ここ伊孑志地区には、逆瀬川という名称が混在している。
マンションの表示やら店の名やら幼稚園までも…である。
少し西へ行けば阪急の逆瀬川駅があるので、伊孑志と表現するよりは分かり易いのであろう。
そういえば逆瀬川(さかせがわ)も難読である。
読みにくい地名が固まっている地域である。

伊孑志の街を歩いて見る。
ここも平坦な住宅地である。
北の外れに「伊和志津(いわしづ)神社」というこれも古い神社がある。

この神社は単立の神社としては、六甲山東側の武庫川流域、即ちかつての武庫郡の地域では、阪神タイガースの必勝祈願神社である西宮の「広田神社」と同程度の古さと由緒の神社だそうである。
この神社は宝塚地域の随一の神社であったと云われている。
この伊和志津神社の祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)で、祀る本殿は一間社春日造柿葺で、市の有形文化財に指定されている。

この神社には面白い言い伝えがある。
豊臣秀吉が仕組んだ朝鮮出征の時、出征した武将の加藤清正が虎を生け捕りにして、連れて帰った。
その虎を大坂城内で飼おうとしたところ、「そんな危険なものはダメだ」と秀吉側近から断られた。
清正はこんなことで揉めても仕方がないので、この伊和志津神社に預けることになった。
神社境内にある広い竹林の中で飼うことになったが、餌をどうしようかと困った。

神社の神官達は、「犬ならばよかろう」と生きた犬を与えた。
ところが与えた犬が猟犬であったので、虎に咬みついてしまったのであった。

神社は預かり物の虎を傷つけてしまったのでパニックになり、大坂の奉行所に申し出た。
するとその奉行所の役人、「犬にかまれるような弱い虎など、捨て置け!」と、粋な計らいとなったそうである。

伊和志津神社を後に再び伊孑志のウオッチングである。
今度は東の方、武庫川に向いて町中を歩く。
暫くすると、広い公園に行き着く。

その道路向こうが宝塚の市役所である。
明治か大正時代の建物を模した伝統的な外観である。

市役所の東側に武庫川が流れている。
現在では歩道橋付の「宝塚新大橋」が架かっていて渡ることができるが、一昔は橋が無かった。
実は小林からウオッチングして来たコースは、かつては西宮街道と云った。
道はここで渡しとなる。

この辺りにあった渡しを「伊孑志の渡し」という。
板橋も掛けられていた時もあったらしいが、掛けては流されたりして、渡しそのものは大正時代まで続けられていたと云われる。
現在の橋を渡って小浜宿まで歩を進めた。
小浜宿は堀や川で周囲を巡らした中の高台にある環濠集落、城塞集落である。

この小浜宿が栄えるのは、戦国の頃、毫摂寺(ごうしょうじ)という本願寺派の寺院を中心とした寺内城塞集落としてである。
毫摂寺はかつては京の鴨川畔にあったが、応仁の乱にて焼失したため、ゆかりあるこの地、小浜に再建されたという経緯である。

小浜宿の入口に珍しいものがある。
丘陵地へ上っていく坂道の右側に二体地蔵と云う首だけの地蔵が2体、祀られている。
高さは子供の背丈ほどもある。
これはこの地の人が近くの墓地の藪の中にあったものを見つけ、お祀りしたと云うことである。
その後、近年になって火事があり、お地蔵さんが傷ついたので、もう一体お祀りし、2体になったと云うことである。

この小浜宿や毫摂寺には、いくつかの逸話もあるが、それはまた別の機会に…。

この小浜宿の街の真ん中で道は分かれている。
有馬街道、京伏見街道、大坂街道と続いて行く。
この分岐点でウオッチングは終了とする。

さてウオッチングしてきた「伊孑志」という地名であるが、中世には伊孑志荘という荘園がありそこから地名は発している。
明治の中ごろまでは「武庫郡伊孑志村」であった。その後良元村の大字となり、良元村と宝塚町(旧:小浜村)の武庫川両側の地区が合併して宝塚市となり、その名を残す地域名として伊孑志(いそし)の1~4丁目となっている。

なぜ「いそし」なのかは定かでないが、古代にはこの辺りまで海が入り込んでいたので、その海岸のイソ(磯)から来ているのでは? と推察できる。

〔完〕