最近、発泡清酒と銘打った日本酒を良く見かける。
多くの酒蔵が日本酒を飲み易く美味しく、特に日本酒の苦手な方をターゲットに拡販を図っているものである。

このような発泡の酒にはビールを意識した発泡酒、ワインを発泡させたスパークリングワイン、発泡リキュール類などがあり、市場は大きく広がって来ているようである。

新潟長岡のH酒造の発泡清酒「和飲柏露(わいんはくろ)」という酒を手に入れた。
300mlの小瓶である。
ラベルに掛かれている文言は下記である。
『原料米 :五百万石、精米歩合:65%、日本酒度:-40、アルコール分:5度以上~6度未満』

日本酒度-40は超甘口である。アルコール分はビール並みなので、結構軽いようである。

酒造メーカーの説明によると、
『天然の発酵炭酸ガスが、シュワシュワと心地良い泡立ちを作り出します。ほどよい酸味と、米が作り出す上品な甘味は、お酒は苦手という方にも新感覚で飲んでいただけます』
と云うことで、酒と云う感覚ではなく、発泡に力点を置いたさわやかな感覚で味わえるとのことである。

早速飲んでみた。
確かに泡立っており、スパークリングワインの感覚である。
飲み易い。アルコールも少ない。
日本酒と云えるのは、奥に酸味が少しするくらいか…。
ビール感覚で一気に飲んでしまったのであった。

酒造蔵はあの手この手で製品の種類を広げ、客を増やそうと云う努力が伺える一品であった。

この発泡清酒の製造社H酒造という酒蔵は、新潟県長岡市にある。
長岡と云えば越後平野の真ん中である。
かつては長岡藩の城下町として栄え、越後の良質米の集散地として賑い、その米を使って酒造りが藩の事業として行われたところである。

この辺りは冬の厳しい寒さと、有数の豪雪地帯である。
積雪のため厳冬期でも極端な低温にはならず、日中と夜間の温度差が比較的少なく、低温で安定型と云われている。
更に冬場は降る雪のため、空気は澄んでいると云われる。
これらの自然条件が、酒造りには良いと云われている。

新潟には、この長岡を始め各所に多数の酒蔵が存在する。
ざっと数えただけでも100軒の酒蔵である。

それは米に加えて良質の水も新潟の強みであるからである。
新潟では冬の季節風にて海から湿気を含んだ空気が山岳地帯に沢山の雪を降らせる。
その雪は真夏でも残雪となって山岳地帯に残っている。

その雪が次第に溶け出し、新潟県内の川を流れ、この水が酒蔵の井戸に蘇り、醸造用水となるわけである。
雪解け水がベースであるから、その水はミネラル分の少ない軟水である。
麹の反応を助け、美味しい酒ができる筈である。

新潟では江戸のころから藩御用達の酒蔵ができ、明治になって大市場東京を背景に多くの酒蔵が出来た。

しかしながら、当地米との適合性が不十分との意見から、新しい酒米の開発が望まれていたという事情もあり、酒の需要が今のようには多くなかった。

長岡の話のついでに余談である。
長岡には藩主牧野家に河井 継之助(かわい つぎのすけ)という家臣がいた。
幕末期の戊辰戦争の時に、幕府軍と新政府軍の中を取り持とうとした男である。

河井は新政府軍の軍監、土佐の岩村精一郎と会談し、新政府軍の奥羽への侵攻停止を訴えた。
しかし岩村は何を勘違いしたか、河井はよくある戦争が嫌なだけの家老であるとの烙印を押され、長岡が会津藩討伐の先鋒にならなければ許さないということを突き付けられた。

そして長岡藩は止む無く奥羽列藩同盟に加わり、戊辰戦争の局面の戦である北越戦争が勃発したのであった。
長岡城下は大戦火に見舞われた。
壊滅的な打撃を受けた。
継之助も負傷を負い、会津の守備へ向かう行軍途中に亡くなったと云う。

話を長岡のH酒造に戻す。
H酒造は長岡藩御用商人の山崎家が越中屋の屋号で、江戸元禄の終わりごろに酒造業を創業したと云われる。
以来、藩御用の酒造りをしながら激動の時代を潜り抜けて、明治を迎えた。

明治になってから10数年もたったころに長岡は、北越戦争での痛みを解消し、平常な街に戻っていた。
そこでH酒造は長岡藩主牧野家の酒造蔵を譲り受け、そして牧野家の家紋「三つ柏」の使用、酒銘「柏露」の継承が許可されたのであった。

しかし10数年後の明治31年、長岡市大火に巻き込まれ、酒蔵は焼失してしまった。

再建を図って、何とか酒造りを継承してきたが、第2次世界大戦の時の統制令によって、酒蔵を廃業させられたのであった。

戦後昭和31年、長岡駅前に会社を再建し酒造業を再開した。
丁度そのころ、新潟では酒造好適米「五百万石」が開発された。
新潟県産の米の生産量が五百万石を突破したのを記念しての名付けである。

実は、それまでの新潟の酒は、寒すぎる気候と、雪解け軟水での仕込が、上手く行っていなかったとも云われている。
新潟の自然条件に適する米の開発が待たれていた。
この米「五百万石」の誕生で全て解決したのであった。

五百万石は新潟の酒にとって、まさに救世主であったと云える。
もちろんH酒造の再建はこの米が誕生するとのきっかけがあったことも事実であろう。

その後、H酒造の事業は順調に進んだのであった。
そして酒造工場を大きくするに当たり郊外に移転して、現在に至っている。

このH酒造はさらなる事業拡大を目指して、発泡清酒「和飲柏露」を立ち上げた。
そして既存の清酒も合わせて大きく全国展開を図っているところである。

将来どうなっていくのであろうか? 期待したいところである。

〔わノ酒 完〕