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京都南部の木津川市を通る国道163号線、通称伊賀街道の加茂町の辺りから、川に沿って北上する道がある。
両側から山が迫るこの川沿いの道を辿り、和束町をウオッチングして見る。
途中、川の対岸には大きな岩に掘られた磨崖仏が見られる。
弥勒磨崖仏という。
この道はズウ~と先の鷲峰山山頂にある金胎寺への参道であるので、その関係で彫られたのであろう。
今にも落ちそうな7mの磨崖仏の大岩を小さな岩が下支えしているのも面白い構図である。
山あいを抜けると、そこには「茶源郷 和束」という看板がある。
いよいよ茶畑の街、和束である。
和束は広大な地域ではない。山の両斜面を利用して、茶畑が作られている。
見渡す限り茶畑である。
和束川を遡って行くのであるが、先ず左手に斜面が茶畑で覆われた古墳がある。
聖武天皇の皇子、安積親王の陵墓である。
茶畑の間を縫って、頂上の神社まで行くことができる。
その辺りの車道沿いには「和束茶カフェ」や「製茶体験工場」、その奥には運動公園もある。
元の川沿いの道に戻り、川を遡ることにする。
町役場がある。
少し遠くに中学校がある。
もちろん沢山の製茶工場がある。
さらに行くと道は川を渡り、小学校の横を通過して、和束天満宮に至る。
この先もまだまだ道は続き、滋賀の信楽に抜けることになる。
和束天満宮は平安時代の創建である。
菅原道真が描いた絵を菅原家より奉納されたので、それを祀ったのが初まりと云われる。
本殿は南北朝の動乱により焼失したが、室町時代に再建されていて、重要文化財となっている。
ついでといっては何だが、天満宮の裏手の山の茶畑を間近で見てみることにする。
山肌に綺麗に整列されている茶畑は見事であった。
この天満宮の下にも茶房があった。
お邪魔してお茶を頂いた。
さすがに産地である。
工場直送のお茶はことのほか美味しかった。
2
和束の街は、なぜ茶源郷なのか?
それを紐解くには、我が国の茶の歴史を遡らなければならない。
お茶の祖と云えば禅宗の祖、建仁寺開山のよく御存じの栄西禅師である。
栄西が中国から茶種を持ち帰って、日本において茶の栽培を奨励し、喫茶の法を普及した。
それ以前には我が国に茶樹がなかったわけでも、喫茶の風がなかったわけでもない。
我が国に茶の種が入ったのは、古く奈良時代、遣隋使の手と思われる。
そして平安時代には、貴族や僧侶の上流社会の間に喫茶が流行していた。
栄西が少年時代を過ごした叡山にも、伝教大師以来、古くから茶との結びつきがあった。
この伝統の影響を受けて栄西は、茶種の招来、喫茶の奨励、いままでごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大させたのであった。
喫茶の法の普及と禅宗の伝来とは深い関係があるが、これはまた別の機会に…。
栄西は1191年肥前佐賀脊振山(せぶりやま)の中腹にある霊仙(りょうぜん)寺に、宋から持ち帰った茶の種を蒔いたのが茶の栽培の最初とされる。
その茶が、次に京の高山寺の明恵(めいけい)上人に伝えられ、栽培された。
そして、和束への入口にある海住山寺の慈心上人が、その栂尾・高山寺の明恵上人より茶の種子の分与を受け、鷲峰山(じゅぶさん)山麓のこの和束の地に植えつけたのが茶産業の開始と云われている。
この和束から、宇治地区一帯に茶の栽培が広げられ、和束は江戸時代には皇室領となり、京都御所にも茶を納めることになったのである。
また、宇治茶は将軍家御用達となり、お茶壺道中も行われた。
それではなぜ宇治茶が御用達になったのか?
我が国最初の茶や品質と云うこともあろうが、それには次の生臭い話がある。
時は関ヶ原の戦いの40日ほど前のこと、舞台は京都伏見城である。
徳川家康は、会津上杉征伐ため、大坂城から会津へ向かうことになったが、その前に居城・伏見城に一旦帰った。
大名や旗本を前にして、
「この伏見城は、儂が不在の間、必ずや襲う輩がある。それで、守りの事じゃが…。会津に大軍を向けねばならない故、守備は総大将に鳥居元忠、そして内藤家長、松平近正・家忠と四将に申し付ける。会津に大軍を向けねばならない故、人数は割けん。ただし鉄砲200丁は残す」
更に家康は続けた。
「この4人には会津への討伐がかなわず、人数も少なく、苦労をかけるが…。しかし、貴殿らを残すことに決めたのは、よくよく考えてのことじゃ」
3
「殿、そういうことはござらん。会津攻めは大事な戦、一人でも多く連れて行かっしゃい。京・大坂が平穏ならば、拙者と近正だけでことは足り申す。じゃが、殿が出て行った後、敵の大軍が押し寄せれば、近くには後詰めを頼む見方もござらん。守り通すのは無理でござる。貴重なお見方をこの城に残すのは無益なことでござる」
と、鳥居元忠は返答した。
そしてこの後夜になって、家康と元忠、昔話に花が咲いたという。
あくる日の6月18日、家康は守将4人に見送られ、堂々たる陣容で上杉征伐にと出発したのであった。
家康の去りゆく姿を見て元忠は身震いすることしきり、しかし涙はこらえたと云う。
この後、程なく4万の大軍が伏見城に押し寄せた。
大将は宇喜多秀家、副将小早川秀秋、その他毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、…など、壮々たる陣容であった。
しかし、やる気の無い将の方が多かった。付き合い出陣である。
城側は4人の将と手勢1800人、それと堅固な城、これだけである。
ここに、宇治にて茶業営む竹庵と云う人物がいた。
伏見籠城の噂を聞き、城におっとり刀で駆けつけた。
「鳥居殿、拙者を籠城戦のお仲間に…。殿の家康殿には、大きな恩義がござる故…」
「竹庵殿、貴殿はもはや町人の身でござる。町人まで巻き込むのは、本意ではござらん。早々に帰られよ」
「何と言われる。殿へのご恩返しは今こそござらん。お返事頂戴つかまつる。でなければ今ここで腹を切る」
詰め寄られて元忠は竹庵の籠城を許し、太鼓丸の守備隊長とした。
さて本題の伏見城攻めは7月19日から始まった。
あらゆる場所から攻めてくるから、堪ったもんではないが、10日間も持ちこたえていた。
寄せ手側は、攻めても攻めても結果は出ない。
もう疲れきっていた。
籠城側も疲れてはいるが、死ぬ気で戦っているため、それを感じない。
意気揚々であった。
ここで策を弄したのが、攻め手の甲賀水口城主の長束正家、籠城側の甲賀衆に既に通じている。
一計を画策した。
「火を放ち、寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を皆殺しにする」
と汚い手を使った。
「今夜、亥の刻に内応する」
と返事が来た。
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首尾通り火の手が上がった。
甲賀衆は混乱に紛れて、石垣を崩した。
西軍が次々になだれ込んだ。
守将は次々に撃ち取られた。
松平家忠、松平近正、上林竹庵、それでも、元忠は本丸で奮戦した。
200名で西軍を3度も追い返したと云う。
しかし、もう周りには10人程しかいなくなっていた。
元忠は力尽きて、長刀を杖に、石段にドッカと寄りかかった時であった。
そこへ、雑賀重朝が現れた。
三人いると云われる雑賀孫市の一人である。
元忠はゆっくり立ちあがり、
「我こそは、伏見の総大将、鳥居元忠である!」
雑賀は、ひざまずき、
「鳥居殿、伏見の城は燃えてござる。お静かにご自害を!」
元忠は、「うん」と頷き、兜を脱いだ。
見事な切腹であった。
伏見の城は、落城した。
この10日以上の戦いで、西軍は疲弊し、直ぐには立ち上がることができなかった。
元忠や家康の目的は、大いに達したのであった。
そして、関ヶ原の戦いも終わった。
伏見城の本丸は燃えなかったが、板の間には元忠始め、多くの勇士の血痕が残されていた。
血天井として、京都の養源院を始め正伝寺、源光庵などに現在も残されている。
また、元忠の血染め畳は家康が江戸城に持ち帰り、伏見櫓に収めて、元忠の精忠を偲んだのであった。
家康は、伏見に籠城した将達の子弟をば、手元に置いて、決して危ないところには行かせず、この後それぞれ加増して家を継がせた。
お茶の上林一族には宇治茶の総支配を仰せつけ、宇治代官に任じて宇治茶を重用した。
また将軍家光は将軍家のお茶を宇治から取り寄せる豪華な行列「お茶壺道中」を行ったのは有名な話である。
上林一族は禁裏御所御用、幕府御用の茶師となり最高の位の御物茶師として江戸時代を送り、今もその伝統は継続している。
それを支えてきた和束(わづか)の茶、和束の街は、誇らしげに「茶源郷」を掲げているのである。
〔完〕