京都のかつての平安京の外の北側(洛北)は平安貴族や皇族の遊興地であり、紫野と呼ばれていて、現在も紫野である。
この紫野、中心の船岡山を取り巻く広い地域のことを云う。

紫とは禁裏の色、内裏を指すもので、紫という高貴な色で表す。
そして紫の野とは、御殿の裏の野原と云うような意味である。
別の云い方では、標野(しめの、〆野)と云う。
貴族が独占している野原と云う意味である。

時代はかなり遡るが、奈良時代以前の天智天皇の大津京の時に、額田王がこんな歌を詠んでいる。
『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』
〔額田王 万葉集巻1‐20〕
平安京の時代より100年も前のことであり関係は無いが、このように貴族たちが遊んだ野原のことを、紫野、標野と呼んでいた。

蓮台野とは、仏教で云う仏の蓮の花の台座を表し、葬送の地であったことを表す。
平安中期からはこの紫野は葬送の場所となった。
奥嵯峨の化野、東山の鳥辺野、そしてこの蓮台野を合わせて京都三大葬送地と云う。

実はこの紫野、標野、蓮台野の3つの「野」は、云い方のカテゴリーが違うだけで同じ地域を指す。

この地域を指して京都七野と云う云い方がある。
紫野、標野、蓮台野に加えて、内野、北野、平野、上野、柏野、萩野の中から7つを選ぶ。
解説者によって時により「…野」が入れ替わる場合がある。

内野は平安遷都の時に大極殿が建てられた場所を指す。
火災により焼失して、鎌倉時代には荒れ野原となってしまっていた。
平安京の内部の野原であるから、鎌倉時代辺りから内野と呼ばれるようになったところである。
従ってここは平安京時代の七野ではない。
それ以外は紫野一部の地名で七野である。
北野、平野はそれぞれ北野天満宮、桜の平野神社の場所である。
上野は大徳寺の北にある現在の上野町である。光念寺という浄土宗の寺が中心である。
この上野には別の面白いことがあるが、それは後半で…。

柏野は、船岡山と北野・平野に挟まれた地域で、柏の木が多かったことから名前がついている。
萩野は上野の北側の地域である。
現在はこの辺りは紫竹という住所地の一部となっている。

余談であるが、紫野の外側は竹林であったことから、現在は紫竹と呼ばれている。
この竹林は、大徳寺高桐院の庭園にその姿を偲ぶことができる。

今回はこの全域、蓮台野、紫野をウオッチングしてみることにする。

スタートは千本丸太町である。
この交差点の西北に「内野児童公園」ある。
この公園の中に「大極殿址」の大きな石碑が立っている。

次は西へ行って御前通りを上がると北野天満宮、その西には平野神社がある。
天満宮をチラ見して、元の千本通りへ戻った。
天満宮の梅はまだ3分咲きぐらいか、まだまだこれからである。

千本通り、西陣の商店街のアーケードの下を上がって行く。
程なく千本閻魔堂(引接寺)に到着する。
冥途への入口と云われ、閻魔さんが裁判・判決をするところである。
巨大な閻魔さんが上から見下ろしている。
見事パスすれば、この北にある上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)に入門でき、蓮の花に座る事ができるという。

この閻魔堂の裏側一帯が柏野である。
町名も昔のまま引き継がれている。
この辺りからは、船岡山が間近に見え隠れする。

さらに進む。
左手に上品蓮台寺がある。
この葬送の地の中心をなす寺である。
元々は聖徳太子が母親の菩提を弔う寺として建立したものであると云われている。
応仁の乱で荒廃したが、紀州の根来寺を焼いた秀吉が、その反省から再興したもので、現在は真言宗智山派の寺となっている。
境内には宇治平等院(10円硬貨)の本尊阿弥陀仏を彫刻した仏師定朝の墓もある。
ここまで来ると、千本通りを挟んで船岡山は間近に見える。

更に北に進む。
千本北大路の交差点となる。
この交差点の東北の隅に後冷泉天皇の火葬塚が宮内庁の管理下で護られている。
このような火葬塚はこの辺りには数多くあるらしい。
当然のことであろう。

更に進む。
左右に佛教大学の学舎が並んでいる。
浄土宗知恩院経営の大学である。
この蓮台野の地で学徒を学ばせるのはとてもいいことかも知れない。

佛教大学を過ぎてまっすぐ行くと鷹ヶ峰に至るが、そこを右にとって北山通りを北東進する。
暫く行くと紫竹と云う地域に入る。
この辺りが紫野の北限であろう。

この地に常徳寺という日蓮宗の寺がある。
常盤御前に関係する寺で、源義経が幼少期を過ごした寺とされている。

この辺りから南下する。
上野町である。
町の一角に「牛若丸誕生井」と云う石碑が立っている。
産湯を使ったのであろう。

この南に光念寺という浄土宗の寺がある。
立ち寄り、聞いて見た。
「京都七野の上野とはこの辺りですか?」
若女将か娘さんのようで、
「よくわかりませんが…」
と、奥に人を呼びに行ってくれた。
若い僧侶風とそのお母さんらしき人も出て来てくれた。
「それは、わかりませんね。この辺りは牛若丸のことで知られてますけどね…。しかし産湯の井戸も2つあるしね…。歴史のことは何とも…」
と、こんな会話であった。
現地の人は、昔の古いことはあまり関心が無いのであろうと思った次第である。

その後、2つ目の牛若丸の井戸を見て、その南にある有名な「今宮神社」へお参りして、大徳寺へ向かう。
この辺りから雨が降り始めた。
傘をさしての歩行は辛いが、引き下がれない。

大徳寺の塔頭を順番に見て回った。
と云っても門構えだけであるが…。
この寺には、戦国の多くの有名武将に関係する寺がある。
秀吉や信長それに千利休は有名であるが、他にも加賀前田家のかかさまである松に因んだ芳春院、細川家に因んだ高桐院、もちろんガラシャの菩提も弔われている。
それに三成に因んだ三玄院など、歴史の舞台があれこれ思い出される。

結構長居をしたが、ここでまだ半分くらいであろう。
大徳寺を出て更に南下する。

雨が激しいので、バスに乗って紫野最南部まで一気に行く。
堀川天神公園と云うところに水火天満宮と云うのがある。
水難除け、火難除けの守り神である。
この神社は北野天満宮よりも20年ほども早くに建立された天満宮である。

菅原道真が亡くなってから、都では天変地異や火災の脅威が絶えなかった。
それに不安を抱いた時の醍醐天皇は法正坊尊意僧正をして祈祷を命じたのであった。
雷鳴轟く中、大雨が降り、賀茂川の水かさは上がり土手を越えて町中に流れ込む事態となった時、僧正は平静を装い数珠を取りだし祈りを捧げたのであった。
暫くして水位は下がり、水の流れが二つに分かれ、そこには石の上に立った道真の姿があったと云われる。
その石「登天石」を持ち帰って祀ったのがこの神社の始まりと云われている。
おそらくは天満宮の第一号であろう。

ご朱印を頂き神官に話を聞いて見た。
この神官、話好きで紫野にまつわるいろんな話をしてくれた。
七野のこと、弁慶・牛若のこと、雲林院のこと、などである。

かいつまんで話すと、
牛若丸と弁慶が出会って戦ったのは紫野の御所ノ橋であろう。
その御所ノ橋が詰まって五条ノ橋になったのであろう。
その証拠として、付近の民家の裏庭に弁慶が座って通行人を待ち伏せしたと云う弁慶腰かけ石がある。
勿論幼少期の牛若はこの辺りを住居としていたからでもある。

今回はパスするが、も少し南の内野に「内野八幡宮」と云われる「首途(かどで)八幡宮」がある。
義経が奥州平泉に赴くに際し、道中の安全を祈願して出立したといわれる神社である。

紫野南部には淳和天皇の離宮雲林亭があった。現在の大徳寺から南、船岡山の東麓の池を取り込むような広大なものであった。
後に天台宗「雲林寺」として改められた。
そして現在は、大徳寺の塔頭として僅かな寺領となっている。

弁慶の話は地元の神官が喋るのだからほぼ間違いがないであろう…。
資料も整理されていた。
目から鱗の思いであった。

今度は西に進む。
最後の目的地は紫野の南端「櫟谷七野(いちいだにななの)神社」である。
平安京を造営した時に、奈良の春日神社を勧請したものであり、春日神社とも呼ばれている。
この神社には、拝殿の右手に「賀茂斎院跡」の碑がある。
この辺りはもともと賀茂社の領地で、賀茂両社に奉仕する天皇家の未婚の皇女、斎王が住んだところである紫野斎院の跡と云われている。

斎王というシステムは約400年もの間続き第35代の礼子内親王で終了となったそうである。
選子内親王、式子内親王のように卓越した歌人もいたり、女官には才媛が多かったので、時折歌会が催されたと云われる。
また現在も葵祭に先立って、当代の斎王代がここを訪れ斎王代就任の報告をする行事がある。

この地点で、蓮台野(れんだいの)・紫野(むらさきの)のウオッチングは終了である。

船岡山を中心に一周したのであるが、その船岡山には何があるか?
船岡山の東から建勲通り、建勲北通りが山に向かっている。

行き着く先は建勲神社(たけいさおじんじゃ)。
織田信長公、信忠公親子が祀られている。

信長公・信忠公がこの蓮台野・紫野の中心にいるのである。
その意味は何なのか?
ますます興味が尽きないところである。

〔完〕