「め」の駅は関西にはあまりない。
「売布(めふ)神社駅」か「妻鹿(めが)駅」ぐらいである。
売布は前のシリーズで訪れているので、今回は妻鹿駅に行くことにした。
準備のために姫路駅の観光案内に立ち寄ったところ、妻鹿の簡単な案内図が貰えたのは、何とも心強いものとなった。

妻鹿駅は山陽電鉄の駅である。
姫路から山陽電車に乗って、数駅で到達する。
住所地は「姫路市 飾磨(しかま)区 妻鹿」、簡単には読めない住所である。

駅の前には市川と云う川が流れている。
下流対岸には、大手電機メーカーP社の工場が見える。

そして駅の前の道路には、「姫路ゆかりの黒田官兵衛、大河ドラマに決定」の幟が何本も立っている。
さらに、道路を跨ぐように「軍師黒田官兵衛」の提灯が吊るされた門も出来ている。
大変な力の入れようである。

来年早々からの放映であるので、ロケなどもしているのであろう。
姫路駅でもしかり、妻鹿駅でもしかり、市あげての宣伝体制である。

この妻鹿に来る前には、姫路出身の同僚から、妻鹿とか隣の白浜とかは「灘のけんか祭り」で有名で、事故死が絶えない祭りであると云うことを聞いていた。
それで練り場や神社の見学をしようと思っていたが、官兵衛があるなら方針変更である。

案内図を参考に妻鹿の街を駅の南側から東側へ、そして北側へと、官兵衛中心に反時計回りに回ってみることにする。

市川の東岸を少し南へ行って、左・東方向への路地に入る。
寺院が幾つかある。
古くからの寺院であろう。
左手に「妻鹿町史料館」と云うのがある。
民家も多くあり、道路は狭くて複雑である。

右手に「固寧倉(こねいそう)」という倉がある。
江戸は中期の建築で、姫路藩が設置したもの。
飢饉に備えて穀類を備蓄した倉であるとのことである。

その前に神仏混合のお堂がある。神宮寺と云う。
隣には新しい蔵も建てられている。

更に東に行く。
突き当りの山が「御旅山」、けんか祭りの神輿やダンジリが覇を競って、練り合う場所「御旅所」がある。
お互いにぶつけ合うので、挟まれてけが人は常時、かつては死者も出たと云う激しい祭りである。

神宮寺の横を北上する。
この辺りは新しい民家が多くなる。
少し離れて中層のマンションもある。

山陽電車の線路を渡る。
少し行くと、右手道路に行けば黒田職隆の廟所ありの案内看板がある。
行ってみる。

暫く行くと「筑前さん参道」の石柱がある。
石柱の奥右手に廟所があった。
五輪の塔で、覆屋の中に収まっている。

黒田職隆(もとたか)は官兵衛孝高(よしたか)如水(じょすい)の父で、親は御着(ごちゃく)城主小寺氏の重臣、重隆である。

有名な秀吉の播磨の時には家督を官兵衛に譲っていた。
姫路城を秀吉に譲り、この妻鹿の国府山城を居城とした。
その後、官兵衛が伊丹有岡城に立て籠もる荒木村重を説得に行って帰ってこなかった間は、家臣達の願いを入れ、当主に復帰して治めたと云われる。

織田信長に反逆していた元主家である小寺政職(まさもと)が逃亡した時には、その息子を匿って養育したと云われている。
秀吉からその律義さが買われ、後に姫路城の留守居を任されたと云う話もある。

廟所を後に少し東へ行くと石の鳥居を見つけたので北上する。
右手の山裾には大きな学校がある。
校舎の上には大きな看板「姫路市立飾磨高等学校」が掲げられている。

鳥居を潜り神社に近づくとそれは「元宮八幡神社」という神社であった。
お参りして神社の裏手に出る。
高校の正面である。
高校のグラウンドのフェンスに沿って歩く。

山裾の住宅街の中の道路である。
川の堤防道路が間近になった時、右手に神社の玉垣がある。
入ってみるとそこは「荒神社」それに「妻鹿城址」という2つの石碑がある。
妻鹿国府山城跡である。

城郭の説明看板によると山全体に郭があったようである。
石碑の前の広場には「目薬の木」が植えられている。
説明には、官兵衛の祖父・重隆はかつて目薬の木から目薬を造り販売して財を成したとある。
黒田家繁栄の元となったのは目薬であったのである。

城跡を後に市川の川縁に出てみると、城山はそんなに高い山ではないことが分かった。
これならば登っておけば良かったと思ったが、あとの祭であった。

 

その後、けんか祭の本会場「松原八幡神社」を訪問し、白浜の宮から姫路駅へ戻ったのであった。

〔めノ駅 完〕