兵庫の宝塚は、西には六甲山系、北には長尾山系という両山地を背景とし、この両山系の間から流れ出る武庫川によって形成された扇状地に発展した街である。

特に長尾山系の南麓、現在の阪急宝塚線やJR福知山線が通っているところは古代から栄えたところである。
平安時代、花山法皇により創設された西国33ヶ所観音霊場巡りの道が、この沿線一帯には残っている。
西国巡礼の道とは、この北摂辺りでは、東にある23番の箕面の勝尾寺から、この場所にある24番中山寺を通り、西にある25番の播州清水寺に至るものである。
分かり易く云うと、梅田から出た阪急宝塚線が終点の宝塚に着く前に通る「山本」「中山」「売布神社」「清荒神」と云う駅のある辺りである。

今回は「売布神社」で下車、ここをスタートとして、街角をウオッチングしてみることにする。

駅の西口を北に向かう。
道路の右手はちょっとした商店街である。
この辺りは売布4丁目と云う。
緩やかな坂を登って行くと、大きな池に突き当たる。
2つに分割された溜池である。

この池の畔に道標がある。
「売布神社」が矢印で示されているので、これを辿ってみることにする。

池の西側のこんもりとした森を背景に「カトリック女子御受難修道会 宝塚黙想の家」の入口がある。
女子と書いているので勝手に入るとまずいなと思い通り過ぎる。
修道会のフェンスに沿って入って行く道路との角に、「巡礼街道」の標柱と、年代物の2本の石柱が建っている。
「売布神社」への矢印も示されている。
既に売布3丁目に入って来ている。

まず売布神社へ行って見よう。
修道会のフェンスに沿う道を歩く。
少々の登りとなり、暫くすると突き当りで、そこに学校がある。
校名を見てみると「宝塚市立売布小学校」である。
手前の右手に売布神社の鳥居がある。

鳥居を潜って参拝である。
すぐ右手に、神社会館と思われる建物がある。
地車(だし)も収納されているような感じである。
関係者であろうか? 何かの作業をしている。

そこから先は鬱蒼とした森である。
この森は宝塚市文化財に指定されていると云う。
木立の間の本殿への階段を登る。
お参りを済ませ、由緒について調べてみる。

この売布神社、正式には「賣布神社」と書く。
この辺りは旧川辺郡米谷村と云ったが、その村の産土神であった。

推古天皇の創建で、時代は7世紀の初めと云われている。
当時はこの辺り一帯は物部氏一族の若湯坐連(わかゆえのむらじ)が支配していたと云われ、彼らが祖とする神を祀っていたと云われる。

物部氏の支配から逃れた後は、大国主神の第二皇女「下照姫神(したてるひめのかみ)」を主祭神としている。

下照姫神はこの地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、種を撒き稲を植え、麻を紡ぎ布を織ることを教えたと云う。
教えられたことに取組み、豊かになった里人が下照姫神を祀ったと伝えられる。

米谷村の地名の由来も売布の由来もこの故事から来ていると思われる。

神社の本殿は桧皮葺(ひわだぶき)流造で、江戸時代後期の建立であるが、兵庫県南部地震で被災し、その後修復されたものである。
10月には、米谷東地区の売布と米谷、米谷西地区の清荒神と、2つの地域から2基の地車が宮入りする「だんじり祭り」が行われる。

神社の鳥居から真っ直ぐ下方に参道が伸びている。
この参道を下り、売布の街を見てみよう。
暫く降りると道は真っ直ぐではなくなる。
この辺は一戸建て中心の住宅地である。
そして道は複雑で、直ぐに方向を失ってしまう。
とにかく低い方へ低い方へと降りてゆく。
この辺りは売布3丁目である。

降り切った所が先ほどの阪急電車の線路、それと高速道路が交差しているところである。
おまけに国道176号線の旧道、それにJRの線路もここに来ている。

この4つの道路・鉄路を越える。
売布の2丁目、1丁目はここから東に広がっている街であるが、3丁目と同じような住宅街であるのでパスし、何かありそうな米谷の方へ歩を進めてみよう。

住所地は米谷2丁目である。
先ほどと同じような一戸建て中心の新しい住宅地である。
地震被害がきつかったのかな? と感じられる風景でもある。
大きな屋敷も見られるが、庄屋と思われる入母屋造りの大邸宅のようなものは見られない。
大きな集合住宅も殆どない。
駅から少し遠いからであろう。

南へ南へと進んで行く。
東西の道に突き当たる。
大坂と有馬温泉を結ぶ有馬街道である。
少し東に行ったところに旧家風の由緒ありそうな建物がある。
宝塚市指定文化財の歴史民俗資料館「旧和田家住宅」である。
宝塚市では最古の住宅で、建築は元禄のころだそうである。

この家も地震被害にあっていて、その時に半壊した家屋が宝塚市に寄付されたと云うことである。
市では復元工事を行い、平成11年にオープンした。
和田家は代々庄屋を務めていて、貴重な歴史資料が修復された土蔵の中に収められているそうである。

和田家住宅を後に、更に進める。
県道は南に曲がっているので、それに沿って進む。
売布神社を案内する石柱も見られる。

深い谷底のようなところに川がある。
そこに架かっている国府橋を渡って、小浜の街へ入って行く。
ここ小浜は有馬街道の小浜宿という昔から栄えた環濠集落、と云うよりも城塞集落である。

まずは真っ直ぐ南へ歩く。
旧街道なので、カラー舗装が行き届いている。

途中右手に本妙寺と云う大きな寺がある。
その先に暫く行くと「皇大神宮」がある。
この神社前は街道の集積場所であり、三叉路になっている。

北へ行くのが有馬街道、東へ行けば京伏見街道、南が西宮街道・馬街道である。
また、街道から小浜の宿場への入口3ヶ所には祠と鳥居がある。
愛宕社と云い、旅の無事を祈願するところである。

この皇大神宮の前から先ず東に歩いて見る。
右手に小浜宿資料館がある。
ここはかの山中鹿之助に関係する屋敷の一部である。
開いていたので入場してみる。

この山中邸の中には玉の井戸と云う名水がある。
秀吉の有馬通いは有名であるが、ここ小浜で休憩した秀吉は、この名水で利休にお茶を点てさせ、楽しんだと云われる。
この名水を見たいと思って、館の職員さんに聞いてみたが、山中邸には今は住人がいないため、玉の井戸は見られないとのことであった。

また鹿之助の一族はこの名水で酒造りを行ったことは有名な話である。
関西の酒造りのルーツと云われる。
その酒屋建物と思われるものが斜め前に残っている。

更に東に進む。
突き当たって左に取ると、そこには法仙寺と云う寺がある。
かつてはこの小浜の南辺りまでは海であった。
行基の高弟、法仙和尚が諸国を行脚の途中、ここ高台の地に草庵を結び、この法仙寺を建立したと云われる。

法仙寺前から、少し西に行き、今度は南に進む。
暫く行くと毫摂寺(ごうしょうじ)という本願寺派の大きな寺がある。

小浜の戦国時代はこの寺が中心の寺内城塞集落として栄えた。

毫摂寺は鎌倉時代に丹波福知山にあった天台寺院を本願寺3世の覚如(かくにょ)に寄進され、覚如の別号であつた「毫摂」を寺名とし、京都に移したのであったが、応仁の乱で京都の町が焼けた時、鴨川畔にあった毫摂寺も焼失、ゆかりあるこの地、小浜に再建したと云う寺である。

この小浜宿や毫摂寺には、いくつかの逸話がある。また悲話も残されている。

大坂時代の豊臣秀吉、子宝の湯と云われる有馬温泉に都合9回も行っている。
正妻おね同伴である。
有馬温泉には、太閤やおねの像やらもある。
また太閤の湯など、ゆかりの施設は現在も隆勢である。
その秀吉一行の休憩場所がこの毫摂寺であった。
名水の山中屋敷はこの寺の北隣である。

また、秀吉の甥・養子の秀次が、北政所おねを伴なって有馬に行く時、この毫摂寺の美貌の娘を見染め、無理やり京都の館へ連れ帰ったという。
この寺娘は亀姫、後に小浜の局という。

しかし淀君に秀頼が産まれると、謀反の口実をつけられ秀次は切腹させられ、30人もあったと云う秀次の妻妾達を三条河原で殺害という惨劇が起こった。
小浜の局ももちろんであるが、その時16歳であったという。
哀れである。

毫摂寺は本願寺の寺である。
信長の本願寺戦争の時はどうだったろうか?
一説によると、この本願寺は信長に帰順していて、信長もこの寺に滞在し破壊は免れたと云う。
この辺りは信長の重臣・荒木村重の支配地であった。
それは頷ける話であるが、村重謀反の疑いが出た時はどうだったろうか?微妙ではある。

尚、この小浜の町、この前の兵庫県南部地震で、かなりな被害を受け、古いままのものばかりではなかったのは、致し方がない。

毫摂寺を後に、小浜宿南口の愛宕社前を下って行くと、途中に首地蔵が2体、鎮座している。
高さは子供の背丈ほどもありそうな…。
近所の人が近くの墓地の藪の中にあったものを見つけ、お祀りしたと云うことである。
近年火事があり、お地蔵さんが傷ついたので、もう一体お祀りし、2体になったと云うことであった。

この地蔵さんの下の街道筋に、谷風岩五郎の墓もあった。この小浜の米豪商の生まれで、大関まで昇進した力士である。

まだまだ何かありそうではあるが、ここらで売布(めふ)・米谷(まいたに)・小浜(こはま)のウオッチングは終了とし、近くの駅まで向かうことにする。

尚、参考であるが、今回ウオッチングしたところは、丁度、JH中国自動車道の宝塚ICと宝塚東トンネルとの区間にあたる部分である。

〔完〕